まもなく創業70周年を迎える[洋菓子のバイカル 下...
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八坂神社と清水寺の坂の中間に位置する石畳の坂道を上がっていくと、両側に風情ある佇まいの町家が並び、正面に法観寺の五重塔が見えてくる。京都人にとっては法観寺と言うより、“八坂の塔”と呼ぶ方がわかりやすい。この五重塔は高さ46mとさほど高くはないが、坂にあり、周囲の家並みも低いため、どこからでもよく目立つ。変化の激しい京都の街で、昔からこの周辺の風景はさほど変わっていない。京都らしい景観のひとつであり、塔は東山のランドマークとなっている。
以前撮影した八坂の塔。坂の上から八坂の塔を振り返って見た様子
明治末〜大正初め頃の絵葉書(筆者所蔵)。その当時も変わらぬ八坂の塔の様子が伺える
この五重塔は飛鳥時代、聖徳太子が如意輪観音の夢告により、難波の四天王寺より先に建立し、仏舎利を納めたと伝わる。平安時代には官寺(国家の監督を受ける代わりにその経済的保障を受けていた寺院)七カ寺の一つだった。伽藍は白鳳7(678)年の建築といわれる。京都人はもちろん、旅行者からも愛されるこの塔に、その昔、珍事が起こった。
天暦2(948)年のこと。八坂の塔が北西に傾いてしまった。その方角に御所があることから、宮中でよくないことが起こるのでは、と大騒ぎになった。
時の天皇は、法力を持つことで知られる修験者・浄蔵に塔を元通りにするよう命じる。さっそく浄蔵が塔に向かって祈祷すると、一晩で塔は真っ直ぐになったという。
この浄蔵は不思議な伝説を持つ人物で、以前の記事でも紹介した一条戻橋に関わるエピソードが残る。熊野から戻ってきた浄蔵が一条戻橋で偶然、父の葬列と出会った。浄蔵は一目会いたかったと嘆き、祈祷すると、父が蘇生したという。
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もうひとつ、塔の傾きを直したと伝わる別の人物がいる。
この塔を建てた大工の棟梁の息子だ。父は、頼りない息子を心配するあまり、わざと塔がじょじょに傾くように仕掛け、息子に秘策を授けて亡くなった。後に傾いてしまった塔の騒ぎを聞きつけた息子は、「自分が直します」と申し出る。そして、あっという間に傾きを直してしまい、一生困らないだけの恩賞を得た。
実は、父親の遺言に従って、塔の中心の柱に庚申さんの入った箱が設置されていたのを取り出しただけで、塔の傾きが直ったのだった。その後、箱に入っていた庚申さんは、法観寺の境内にお堂を建て安置された。息子の行く末を心配した親心と父の建築士としての優秀さを表すエピソードだ。
庚申堂
親思いの浄蔵と子思いの父の逸話を残す法観寺は、昔は大きな境内を持ち、八坂庚申堂は境内の一堂だった。現在の八坂の塔は室町時代八代将軍・足利義政が再建したもの。
さて、京都の夏を彩る「祇園祭」の山のひとつに山伏山がある。ご神体は浄蔵が山伏姿で大峰入りする姿を表す。今年、山鉾巡行は中止が決まったが、来年は八坂の塔の傾きを直した法力の持ち主・浄蔵ゆかりの「山伏山」の勇姿が見られることを楽しみにしたい。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。