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平安京の羅城門跡から南へのびる鳥羽作道(鳥羽街道)。平安建都のために造成された道としても名高い古道だ。この鳥羽街道沿いに、男と女の悲話を伝える2つの恋寺がある。一つは上鳥羽にある「浄禅寺」で、もう一つは少し南へ下った下鳥羽にある「恋塚寺」である。
平安時代末、北面の武士の遠藤盛遠(もりとお)は淀川の橋供養の際、美しい女を見初める。女の乗った輿の後をつけた盛遠は、その女が自分の叔母の娘・袈裟(けさ)だと知る。幼なじみだった少女が美しく成長し、源渡(みなもとのわたる)の妻になっていたことに驚き、同時に恋い心を募らせていく。
盛遠は人妻と知って諦めるどころか、叔母を脅して袈裟との逢瀬を迫る。母から事の顛末を聞いた袈裟は一夜、盛遠と過ごし、「自分の夫を殺してくれたら一緒になれます。夫には髪を洗わせ、酔わせて眠らせるので、髪の濡れている方を斬ってください」とそそのかす。
約束の夜、盛遠が袈裟の家に忍び、漆黒の闇に包まれた部屋に眠る男の濡れ髪を掴み、一太刀で斬って素知らぬ顔で家に戻る。ところが翌日、源渡ではなく袈裟が殺されたと聞き、仰天して昨夜の首を確認すると、自分が斬ったのは愛しい女の首だった。
袈裟の様子が伝わる『古今名婦伝 袈裟御前』(国会図書館デジタルコレクション所蔵)
盛遠は袈裟の夫に、下手人は自分だと名乗り、斬ってくれと頼むが、「そんなことをしても袈裟は帰ってこない」と言われ、俗世を捨てて出家の道を選ぶ。この盛遠こそ、荒法師とか怪僧と呼ばれた、文覚上人その人だった。文覚は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に、父義朝の髑髏を見せて平家討伐を促したとされる。彼がいなければ、頼朝は挙兵していなかったともいわれるほど頼朝の信頼は厚かったという。
『集古十種. 古画肖像之部 下』文覚上人像(国会図書館デジタルコレクション所蔵)
鳥羽作道の上鳥羽にある「浄禅寺」は京の六地蔵の一つで、文覚が袈裟の菩提を弔うために建立したと伝わる。境内には供養塔が立つことから、恋塚の名でも知られる。一説には昔、付近の池にいた鯉の妖怪を退治した塚があったため、鯉塚=恋塚となったとも。
六地蔵の一つでもある、上鳥羽にある浄禅寺
門前に立つ恋塚浄禅寺の石碑
この寺から鳥羽街道を下っていくと、下鳥羽にもう一つの「恋塚寺」がある。かやぶき屋根が目をひくこの寺もまた、袈裟の菩提を弔うために文覚が建立したと伝えられ、袈裟、盛遠、源渡の木像が安置される。
下鳥羽にある、もう一つの恋塚寺
文覚上人は高雄の神護寺を再興した人物としても知られるが、貞女の鏡といわれた袈裟への罪の呵責で、後世は修行に励み続けた……とはならなかった。
頼朝亡き後も野心的であり続け、怪僧といわれるほど豪胆な性格がわざわいして、後鳥羽上皇(天皇)への謀反の罪で流刑の憂き目に遭い、途中で命を落としてしまう。謀反に至ったのは、遊興ばかりにふける上皇(天皇)を批判しての事らしく、恋だけでなく、すべてに実直で激情型の性格だったことが想像できる。
鳥羽作道に建つ2つの寺に残る文覚(盛遠)と袈裟の悲話は後世、芥川龍之介が小説として描き、映画『地獄門』はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞し、広く世界にも知られるようになった。
(参考文献/『京都の伝説 日本の伝説1』 駒敏郎・中川正文著 角川書店)
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。