まもなく創業70周年を迎える[洋菓子のバイカル 下...
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嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな――
(嘆け、と月がものおもいをさせるのであろうか そうではない 恋のためなのに月のせいだとばかりに 流れる私の涙であることよ)
百人一首第86番の西行法師が詠んだ歌だ。歌人として天賦の才を発揮した西行。彼は名門の出で、鳥羽上皇の北面の武士(天皇の近衛兵)でありながら、若くして俗世を捨て出家した。その後、諸国を旅し、その先々で多くの歌を残す。なかでも恋の歌が多いが、一説には、失恋が俗世を捨てるきっかけになったとも言われる。
その西行が庵を結んだのが、京都の西、嵯峨野の地。西行は嵐山の辺りをよく歩いたのだろう。天龍寺の門前、東に通じる道にかかる「龍門橋」に、次のようなエピソードが残っている。
西行この橋を通りかかると、反対側から童子が現れ、歌を詠みかけてきた。西行は相手を子ども扱いせず、即座に返歌してみせた。ところが、童子はさらに返歌してくる。ほほう、と西行は感心し、返歌した。が、またも即座に童子は返歌する。問答のように歌を詠み合ううち、とうとう法師の方が根負けして歌に詰まり、返歌できなかった。歌聖・西行が返歌で負けたことで、この橋は「歌詰橋」と呼ばれるようになったという。
現在の龍門橋を訪ねてみた。小さな橋で、街並みの一角に溶け込んで、立ち止まる人もいない。だが、橋のたもとに立つ駒札をみると、西行はこの橋のたもとにあった酒屋で歌を詠み、返歌に詰まったと記されている。
西行法師ゆかりの龍門橋
先ほど紹介した童子の話とは違うこの駒札の由来となったエピソードも今に伝わっている。
西行が橋を通っていると、ほのかに梅の花と酒の匂いがする。と、酒屋から女が出てくるのにばったり出会った。そこで、
つぼの内 匂来にけり 梅の花 まづさけ一つ 春のしるしに――
(壺庭から匂ってくる梅の花は、春のしるしにまず一つ咲いてほしい そして梅の香とともに 酒壺のよい香りの酒を ひとつ所望したいものだ)
と、西行が女に詠みかけると、女は即座に、
つぼの内 にほひし花は うつろいて 霞ぞのこる 春のしるしに――
(壺庭の梅の花は盛りを過ぎて 春の名残だけ残っています そして酒壺の酒は霞のように無くなって 匂いだけが残っています)
と詠み返した。法師は、ぐっと返歌に詰まってしまい、以来、「龍門橋」は「歌詰橋(歌女[うたづめ])橋」になったという。西行はお酒を飲み損ねたのだろうか?
歌に詠まれた梅は盛りを過ぎていたが、ちょうど見頃の紅梅
さて、西行にはもう一首、有名な歌がある。
願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ――
(願うことなら 2月の満月の頃 満開の桜の下で死のう)
陰暦2月の満月の頃といえば現代では、ちょうど3月中旬にあたる。実際、西行は自らが願ったとおり、満開の花の下、陰暦2月15日(3月中旬)の翌日16日に亡くなり、当時の人々を驚かせたと伝わる。
落柿舎の北側に今も残る「西行井戸」。
西行法師がこの辺りに庵を設けたときに使っていたと伝わる
西行井戸の前から見る長閑な嵯峨野
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。