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往古、京都では、人が亡くなると遺体を野ざらしにしてあの世へ見送った。そのまま朽ちるに任せる風葬が主流で、遺体を鳥が啄んで処理するので「鳥葬」とも呼ばれた。
特に平安時代は、平安京の人口が12〜13万人だったといわれ、遺体をどうするかは大問題だった。都を清浄な空間として保つため、自然に葬送の地は都の外へと広がっていく。だが、あまりに遠隔地では用をなさず、都からそう遠くない場所が選ばれた。
その中でも葬送地として一番規模の大きかったのが、東山の鳥辺野(とりべの)であった。今も鳥辺野の入口を示す「六道の辻」の石碑が立ち、歴史の一端をかい間見せてくれる。六道珍皇寺の前に一つ、そして松原通りを挟んで少し東南にもう一つ、石碑が立つ。この辻を境に南は「あの世」(鳥辺野)で、北は「この世」というわけである。
西福寺の横にある「六道の辻」の石碑
鳥辺野は阿弥陀ヶ峰山麓の丘陵地辺りをいう。取材をすすめるうちに、山の枝に遺体をかけて鳥が食べやすいように処理して風葬にしたとのことで、そこから「鳥辺野」という地名になったとも聞いた。
鳥戸野陵参道の石段
京都名所案内図会. 和1冊(上)「鳥辺山」
(国会図書館デジタルコレクション所蔵)
鎌倉時代に吉田兼好は随筆『徒然草』に「あだし野の露、鳥辺山の煙」と記し、その一文はよく知られるが、人の世のはかなさを綴っていて、葬送の地の代名詞ともなっている。
時代は前後するが、平安時代の権力者である藤原道長が荼毘(だび)に付されたのも鳥辺野である。また、同じ時代に紫式部が執筆した王朝絵巻『源氏物語』の中でも桐壺の更衣や葵の上、夕顔などが葬送されるのも、またこの地だった。
鳥辺野が京都の葬送地として一般的だったのは間違いないが、それが大規模化していった背景には仏教が説く「西方浄土」が大きく関係していたともいい、京都の東に位置する鳥辺野から西の彼方にある極楽の地「西方浄土」へ向かうという願いが込められていたから、という説もある。
ただ、平安京の頃は三位以上の身分ある者しか墓を造ることが許されず、火葬もまた費用がかかることから、庶民のほとんどは風葬だったとされる。
「文久改正新増細見京繪圖大全完」
トリヘノの文字がみえる(著者所蔵)
現在の京都はどこも街中になっているが、「野」の付く地名の多くは風葬の地だったと伝えられる。
鳥辺野と並んで平安京の三大葬送の地として有名な蓮台野の背後の山「衣笠山(五山の送り火の一つ右大文字の山)」の名は、蓮台野に風葬された遺体に掛けられた着物が風で舞い飛び、次々に山の木の枝にひっかかっていたから、そう呼ばれたという。
今ではすっかり都市に変貌し、その名残はほとんど見られないが。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。