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2019.3.1
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伝説に彩られた静原と鞍馬の境界「薬王坂」

北山の静原と鞍馬を結ぶ峠道に「薬王坂」がある。「やこうざか」とも「やっこうざか」とも呼ばれる。

 

以前、二ノ瀬の夜泣き峠を紹介したが、「坂」や「峠」は、里(村)への入口でもあると同時に出口でもあった。また、坂は峠によって両側の里(村)を裂く場所、つまり境界として存在した。

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例えば、日本神話に登場する「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、あの世と現世との境界、黄泉への入口とされる。京都でも洛中洛外の境には「坂」が存在し、また、清水寺周辺の三年坂には転ぶと3年以内に命を取られるといった都市伝説も加えられた。古くから現代に至るまで、「坂」はあの世に近しい場所として考えられてきた。

 

静原と鞍馬の境界にある「薬王坂」の歴史は古い。叡山延暦寺と鞍馬寺を最短距離で結び、それぞれの僧侶が行き交う道であった。

平安時代初期の人物、伝教大師最澄は鞍馬で薬王如来の像を造って比叡山へ帰る途中、この坂を通りかかる。その時、目の前に薬王が姿を現したという。それが、この坂の名称となったと伝わる。

江戸時代、鞍馬は京と丹波国を結ぶ交易拠点の「市場」として商人と牛馬でごったがえすほど栄えた。その賑わいをみせる市場へ通い、大原や静原の里人が足繁く通い、日常の生活用品や衣類などを買い求める生活道として使われていた。

 

今回は、薬王坂を静原の里側から歩いてみた。里の西端に上り口があり、滑り止めが施された舗装道の急坂を上っていくと、途中から登山道が迎えてくれる。


静原側から薬王坂入口に向かう急坂

いくつかバンガロー風の建物が見られ、中腹あたりに来ると、赤松の巨大な古木の根元に立てられた石仏に出合った。少し前に傾いているが、まるでその古木の根に抱かれているように見える。説明板には「弥陀二尊板碑」とあった。


弥陀二尊板碑

板碑は南北朝時代後期のもので、在俗出家夫婦の妻が夫の菩提を弔い、後生安楽を祈って立てたものらしい。花崗岩の板碑に二体の阿弥陀如来が浮き彫りにされているが、約600年もの間、風雪に耐えて鎮座し続けている。

夫婦でこの板碑に詣り、坂越えをすると末永く夫婦円満で過ごせるとも聞く。境界を越える峠越えには、どんな危険が伴うかわからない。旅人は坂を通る度、板碑に無事を祈願したようだ。板碑は昨年(2018年)9月に京都に甚大な被害を出した台風21号にも耐え、健在だ。

ところで、『平家物語』の中に後白河法皇が薬王坂を越える場面が登場する。その記述を見ると、険しい難所だと記される。実際に坂道を上ってみると、よく踏み固められた道だが、両側から覆うように樹木の影が落ちて昼なお、うす暗い。眺望は望めず、落ち葉を踏む音だけが響く。まさに異界の地を行くような気分だった。京都の峠や坂には、そんな場所が多く残っていることにも驚かされる。


薬王坂の様子


薬王坂の峠付近に祀られる、お地蔵さん


薬王坂の峠付近にある、鞍馬と静原(の境界)を示す標識

かつて様々な立場の人が越えた薬王坂も今、行き交うのはハイカーくらいになった。が、途中で出合った弥陀二尊板碑とともに、これからも昔と変わらず往来する人たちの無事を見守り続けてくれることだろう。


薬王坂を鞍馬側へ下りる。鞍馬の町並み

京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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