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京都の古道の一つが今、古道歩きを楽しむハイカーの間で話題の歩き旅スポットになっている。なんでも、その道を歩いてその先の神社へ参拝すれば「大願成就」のご利益がいただけるのだそうだ。
その古道というのが「滑石越(すべりいしごえ)」だった。京都市東山区から山科区にかけての東山を越える峠道で、三十三間堂、または智積院南の今熊野宝蔵院町から東へ坂道を登り、東山を横断して山科区へ入って勧修寺や醍醐寺に至る旧醍醐街道である。全長約3.5km。昔は勧修寺や醍醐寺への参拝道として、また京の東出入口の役目を担った間道として、大いに活躍したと聞く。
江戸時代の古絵図に描かれるスベリ石越(著者所蔵)
ただ、かなり気になるのが、「滑り」という余り縁起の良くなさそうな古道の名前がなぜ、大願成就というご利益をいただけるのだろうか? 語呂合わせが悪く、「福運」が体からポロリと滑り落ちてしまいそうだ。
その疑問を解決してくれるのが、この古道を歩いて東山の峠を越えた先にある、1935(昭和10)年創建の大石神社だった。
大石神社の鳥居
祭神は、国民的ヒーロー、あの忠臣蔵で有名な播州赤穂藩浅野内匠頭家の筆頭家老であった大石内蔵助である。神社は討ち入りを果たした赤穂義士にあやかり、大願成就のご利益があると信仰されている。
大石神社の大願成就の絵馬
だとすると、わざわざ急坂を歩いて山越えし、足を棒にして参拝しなくても、便利な交通機関を使えば良いのではないか、と思いたくなる。が、それには次のような赤穂義士伝の有名なひと幕が大いに関係していた。
内蔵助は討ち入り前、京都の山科で隠棲生活を送っていた。その間、討ち入りの計画を練りながら、討ち入りを警戒する幕府や吉良上野介側の間諜や密偵を欺くため、毎晩のように京の遊里(島原、祇園、伏見橦木町)に出入りし、豪遊三昧で遊び呆けて過ごす。
「武士の本懐を忘れた腰抜け、ふぬけ侍」と罵られようとも、本願成就のためには味方までも欺いた。その時に夜毎、山科の閉居から内蔵助が京の遊里へと往復した道が、この滑石越だった。その閉居跡は今も、大石神社の南隣に残っている。
山科にある大石良雄閉居址の石碑
今はこの古道も車両の往来が絶えない府道になって、さほど苦にせずに歩けるが、内蔵助が往来した元禄時代(約300年前)は、山越えの道で勾配もきつく、京の三大葬送の地であった鳥辺野の一角を通り、群生する竹林の中を進む寂しい道だった。
滑石越の途中
この道の名の由来の一つに、内蔵助たちがこの道を往来していた時に山道の浮石に足をとられ、滑って転んだから、というのがあって興味深い。
滑石越の途中にある大石内蔵助良雄一服の石
そうして内蔵助は主君の仇討ちという本懐を胸に秘め、ふぬけ侍を演じ切り、見事に敵を欺いて大願成就をものにした。その名場面の裏に、滑石越の道があったというわけだ。この古道を歩いて内蔵助の苦労を共感し、大石神社に参拝すれば、大願成就のご利益も倍加するという思いから、ハイカーたちにこの古道が注目されるようになったとのこと。
12月14日は、赤穂浪士が討ち入りを果たした日だ。その日に、大石内蔵助の隠棲地だった山科では「義士まつり」が行われる。今年はぜひ、このまつりに併せて滑り石越えの古道を歩き、大石神社に参拝して、義士まつりを見物する、というフルコースで、大願成就といきたいものだ。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。