[京都祇をん ににぎ 祇園本店]と[米安珈琲焙煎所...
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南山城の古道を取材していて、木津川市の上狛で大きな石仏に出会った。
南山城地域はお茶の栽培で知られ、上狛には幕末から昭和初期にかけて建てられた茶問屋が40軒ほど軒を連ねている。
茶問屋街
趣のある佇まいの茶問屋街を抜け、木津川右岸堤防の手前の道を東へ向かった。通りのどん突きに、奈良時代の名僧・行基によって建てられた「泉橋寺」がある。
上狛にある泉橋寺
この寺の山門脇に鎮座し、ひときわ存在感を放っているのが、石造菩薩地蔵だ。永仁3(1295)年に石が切り出され、徳治3(1308)年に地蔵堂の上棟・供養されたもので、座高が4.58メートルもある。
もし、お立ちになったら、10メートルを超えるのかも! 一般的な「お地蔵さん」から想像すると、驚くほど大きい。地蔵では日本一の大きさだと聞いた。
この地蔵は一度、災難にあっている。応仁元(1467)年に始まった、京都を焼け野原にした応仁の乱で、一部が焼損したのだ。応仁の乱の被害は京都市内にとどまらず、南山城も戦場となり、西軍だった大内政弘の軍勢がこの木津郷に押し寄せたそうだ。その際、泉橋寺と境内の地蔵堂が焼け、地蔵石仏も焼損してしまった。以来、風雨にさらされて約200年以上、ようやく元禄3(1690)年に焼損した頭部と両腕が補われた。今、秋空の下、見上げる地蔵の表情はおだやかだ。
泉橋寺の地蔵石仏
古くから、人々の信仰の対象であり続けた地蔵菩薩は、慈悲の心で人々を包んで救うといわれている。子どもを守護してくれる仏様として知られるが、その御利益は、さまざまだ。安産から子授け、無病息災や五穀豊穣、交通安全というように幅広い。しかも、一度でも地蔵に手を合わせると、身代わりになって地獄の苦しみから救ってくれるという、なんともありがたい菩薩だった。
また、上狛の地は昔は、京都と奈良を結ぶ陸路はもちろん、木津川水運を利用した交通の要所だった。
木津川
この辺りは大雨が降る度、木津川が増水し、たびたび交通は途絶えることになった。地蔵石仏のある泉橋寺は木津川の傍に建つ。
木津川右岸堤防から見た泉橋寺の地蔵石仏
人々は川の水が引くのを待ちわびつつ、この地蔵に交通安全を祈願したという。寺では、増水で橋が流された時のために人馬を運ぶ舟三艘を供えていたそうである。
交通の要所に露座し、地域の人々を護ってきたこの地蔵、天明7(1787)年刊行の『拾遺都名所図会』にも紹介されている。当時の建物の高さや描かれている人の大きさと比較すると、その大きさがよくわかる。
『都名所圖會 4巻』
(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
今、地蔵盆になると、子どもたちが住職の念仏に合わせて地蔵のまわりを百万遍数珠ぐりをし、無病息災などを祈願する。日本一といわれる大きさだけあって、子どもたちを何人でもいっぺんに守ってくれそうだ。
鎌倉時代から現代へ、そしてその先の時代になっても、泉橋寺の大地蔵は地元の人々や往来する旅人にとって、いつでも出会える身近な存在であり、見守ってくれる力強い仏様であるにちがいない。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。