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西国三十三所第十八番札所として知られる六角堂。正式名称は頂法寺だが、本堂を真上から見ると屋根が六角形をしているため、京都では「六角さん」とか「六角堂」と親しみを込めて呼ばれる。聖徳太子の創建と伝わり、いけばなの池坊発祥の地としても名高い。
六角堂(頂法寺)
西国三十三所。
観音霊場の第十八番札所として知られる
この六角堂に恋の伝説があった。
平安時代初期のこと。妃を探していた嵯峨天皇はある夜、不思議な夢を見た。如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」と告げた。さっそく帝が六角堂に人を遣わすと、境内の柳の下にこの世の人とは思えないほど美しく、良い匂いのする女性が立っていた。この時代は良い香りがする女性が、美人の条件の一つだった。天皇はその女性を妃に迎え、寵愛したという。
その伝説から、「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」とか「恋が成就する」といった噂が広まり、縁結びや恋が叶う場所として信仰されるようになった。本堂前の柳の枝におみくじが結んであるのをよく見かける。2本の柳の枝をひとつにし、おみくじを結んでおくと縁結びの御利益があるようだ。
六角堂境内の縁結び伝説ゆかりの柳
もう一つ、本堂前には、中心に丸く穴のあいた六角形の石がある。「へそ石」と呼ばれているが、京の町の中心にあるから、その名が付いたようだ。
六角堂境内にある「へそ石」
もとは寺の門前の六角通にあったもので、明治初期に境内へと移された。この石は、平安京造営の際、本堂の位置に道を通すことになり、桓武天皇が困って「少し動いてください」と人をやって本堂に祈ったところ、一夜にして本堂が約15m北、現在の場所へ移動したそうだ。あとには礎石がひとつ残されたという。それが今に伝わるへそ石で、「本堂古跡の石」とも呼ぶ。江戸時代の『都名所図会』には、へそ石が境内ではなく、寺の門前にあるのが見てとれる。
『都名所図会』6巻より。
六角堂の門前に「へそ石」がある
(国会図書館デジタルコレクション所蔵)
このへそ石は、本土の礎石だといわれる以外に、もう一つエピソードがある。実は、水時計の礎石だというのだ。
昔、京の町は鴨川の氾濫によって、たびたび水害に見舞われた。このへそ石の中心には棒が立てられていて、その棒のどの辺りまで水位が上がったら逃げる、という避難指示の目安だったという。そしてこの寺の鐘楼の鐘が鳴らされ、人々は避難した。
六角堂の鐘楼の鐘
江戸時代、六角堂は下京の町堂であり、人々に時刻を告げるため、決まった時刻に「時の鐘」が撞かれ、現代の時計の役割を果たしていたが、ひとたび火事や洪水などの災害や戦乱が起こると鐘を撞いて知らせる警報の役目も果たし、京の人々にとって、なくてはならないものだった。
ちょうど6月10日は「時の記念日」だ。671年、日本で初めて天智天皇が漏刻(ろうこく)を造り、太鼓や鐘を打って時刻を民に知らせた日だと『日本書紀』に記される。漏刻とは唐(中国)から伝わった水時計のこと。紀元前からエジプトでは使われていたという。
時計のなかった時代、京の町に時刻や災害を知らせたとされる六角堂の鐘は今、オートメーションになっていると聞いた。時代の変遷を感じさせる「時の鐘」。スマホを覗けば時間を知ることのできる現代、その役目は終えてしまったように見える。だが、あの原爆投下時刻や終戦記念日、年末の除夜などには人の手によって六角堂の鐘が撞かれ、京都の街に、人の心に、深くその音色を響かせ続けている。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。