[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
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久しぶりに、京都の北東に位置する比叡山へ向かう雲母坂(きららざか)を登ってきた。狭く急坂の道は古来より、都から比叡山への主要なルートの一つだった。延暦寺への勅使や修行僧が行き来した道でもあり、勅使坂とか禅師坂、阿闍梨道とも呼ばれてきた。
現在、登山者たちに愛される雲母坂の登山口は、音羽川上流の脇にある。登り口には雲母坂の石標が立つが、古くは一乗寺下がり松から北へ向かう道、現在の曼殊院道からすでに雲母坂道は始まっていた。そして一条寺下り松の辺りからが結界だったと聞いている。
きらら坂と描かれた石柱
一乗寺下り松
曼殊院道(旧雲母坂道)の途中にある、元禄2年創業の雲母漬の老舗「穂野出(ほので)」の敷地内には、「女人牛馬結界」と刻まれた結界石が立つ。
雲母漬老舗「穂野出」
「女人牛馬結界」の石柱
ここから先は女人や牛馬は入ることができなかったということだろう。14代目のご主人にお話を伺うと、昔は比叡山へ行く人たちがこの茶店で一服したのこと。そして、この老舗は関所でもあった。比叡山へ行くには許可が要り、許可のない者や曲者をこの関所でくい止める役割をも果たしていたそうだ。
旧雲母坂道
この旧雲母坂道のなだらかな上りを北へ歩き、現在の登山口から急坂を足をたくましくして登り詰めると、やがて水飲対陣跡に出る。そこから山頂に向かって少し登ると、もう一つの結界石に出合うことができた。「浄刹結界址」と描かれた石柱だ。
狭く急な雲母坂の上り
雲母坂を終えてしばらく行った場所にある
「浄刹結界址」の石碑
辞書によると、浄刹は「浄土」とか「清浄な領域、清浄な寺院」、結界は「修法を行って魔物の侵入を防ぐ」とか「仏道修行の妨げになるものの出入りを禁ずる」という意味があるので、ここから先はまさに聖域に足を踏み入れることになる。ということは、女人牛馬結界の石碑をみると、当時は女人も修行のさまたげになるということか。
さて、この雲母坂という神秘的な響きの名前だが、『山州名跡志』によると、「この坂、雲を生ずるに似たり、よって雲母坂と云う」とある。また、「雲母」というのは花崗岩などに含まれる鉱物のこと。この付近には雲母の含まれる花崗岩が多い。雲母のきらきらした輝きから、その名が付いたとも、また雲母寺があったからともいわれている。
ところで、女人禁制だった比叡山には、次のようなエピソードが伝わる。比叡山に非常事態が起きると、その直前に茄子に似た紫色の顔をしたお婆さんが現れて大講堂前の鐘を撞き、いちはやく危機を知らせるという。この女人は「茄子婆さん」と呼ばれていた。織田信長が攻めてきた際にも、茄子婆さんが現れたそうだ。女人禁制の霊山で、その危機をいちはやく救うのが女人だという伝説は、比叡山に登れなくとも信仰心の強さは男性に劣っていないことを表すエピソードとして興味深い。
昭和初期の絵葉書。
滋賀県坂本側から駕籠で延暦寺に参詣する様子
今、雲母坂や比叡山は誰でも登ることができるし、叡山電鉄とケーブル、ロープウェイを乗り継いで手軽に上ることもできる。だが、旧雲母坂道から険しい山道へ入り、音羽川の流れや森閑とした空気のなかを登っていくと、この地域が今も京都の結界・聖域であることを肌で感じられ、心身ともに浄化されていく気がするから、不思議だ。
山頂までの間に開けた眺望
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。