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「命がけの恋」という言葉があるが、平安時代の初期、命をかけてしまった恋の逸話が残る。平安時代の歌人で絶世の美女として知られる小野小町と深草少将との「百夜通い」のエピソードが、それだ。
「芸海游弋」(高野辰之 1940)より小野小町
(国会図書館デジタルコレクションより引用)
当時の恋愛は文や歌のやり取りが主で、顔を合わせることはないというのだから、小町は相当、文才に長けた人物で、筆遣いや紙の選び方などにもセンスがあったのだろう。だが、あちこちから恋文を受け取っていた小町にとって、深草少将から届いた恋文はその中の一通に過ぎず、煩わしいとさえ思っていたのかもしれない。小町は、「百夜訪ねて来てくれたなら、お心に従いましょう」と、条件を出す。
小町を恋焦がれる深草少将は言われるまま、毎夜、小町の住居へ通い続けた。第一夜はちょうど今頃、秋の虫の鳴く月夜だったと思われる。それからというもの、少将は闇夜も雨の夜も通いつめた。「牛車で来られては目立ちます」と小町から言われ、雨の夜は蓑(みの)をつけ竹の杖を持って歩いた。そして百夜目、大雪に見舞われた。少将は寒さと疲労で力突き、凍死してしまったと伝わる。
その百夜通いにゆかりある地が、伏見にあるというので、訪れてみた。
深草少将の住居跡とも伝わるのが、伏見区西桝屋町にある曹洞宗の欣浄寺(ごんじょうじ)だ。本尊が「伏見大仏」で知られる曹洞宗の寺で、境内には少将塚や小町塚、少将の涙の水とも言われる少将姿見の井、小町姿見の池がある。
欣浄寺境内の姿見の池
後の人が百夜通いのエピソードを知って立てたのだろうか、少将と小町の供養塔が並んでいる。また境内には、「少将の通い道」と呼ばれる小径があり、訴訟を抱えている人がその道を通ると願いが叶わない、と言い伝えられている。
少将が通ったと伝わる竹林の古道
そして、もう一つ訪れてみたいのは、欣浄寺から約5kmの距離にある随心院だ。小野小町の住居だったといわれる真言宗善通寺派大本山の寺で、梅の名所としても名高い。
小野小町ゆかりの随心院
約5kmとはいえ、毎夜、往復するのは相当、大変だったに違いない。途中の竹藪の古道は千年の昔を想像させてくれる。寺の境内には、小町への千通の手紙が埋められたと伝わる小町文塚があり、この塚を詣でると恋文や文章が上達するといわれる。ほかにも、小町が朝な夕な顔を洗ったと伝わる化粧の井戸も残されていた。
随心院境内にある小野小町化粧井戸
さて、百夜通いは少将の死で終わってしまったが、その後のエピソードがある。
ある時、一人の僧のもとに小野小町の霊が現れて、「どうぞ供養してください」と懇願する。僧が小町のために香を焚き、読経していたところ、一人の男の霊が現れ、「小町が成仏したなら、再び私は一人で苦患の底へ沈んでしまう。そんなことはしてくれるな」と言う。小町の霊が成仏するのを引き留めた人物こそ、「百夜通い」の片方の主人公・深草少将だった。少将を気の毒に思った僧は、二人の霊を弔って、そろって成仏させたという。
かつては随心院境内を中心に、99本の榧(かや)の巨木が生えていたとされ、現在も随心院の近くに大きな榧の木が残る。その木は少将が通って来る度、小町が一粒ずつ綴っていた実の一つが育ったもので、二人の死後に撒かれたと伝え聞く。
随心院周辺に今も残る榧の御神木
ただし、逆の説もある。榧の実を置いたのは少将の方だったというのだ。少将は自分が確かに訪ねた証拠として、小町の屋敷の門口に毎夜一粒ずつ榧の実を置いていたが願いを果たせず、100粒目の実を握り締めたまま、事切れたという。
実は小町も少将が訪ねて来る度、榧の実を綴りながら、その誠実さに心打たれ、百夜を心待ちにしていたのかもしれない。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。