[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
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6月30日の夏越しの祓えには、水無月が欠かせない。三角形のういろうに小豆を乗せた和菓子で、三角のかたちは暑気を払う氷を模し、小豆は魔除けを意味するとのこと。そして、この菓子が生まれた背景には、平安時代の「氷室」の逸話があった。
和菓子・水無月
当時、冷凍庫の役目を担ったのが、氷室と呼ばれた地下保冷倉庫だった。氷室は都よりグッと気温の低い山懐の地に、周囲約10m、深さ約3mの穴を掘ってこしらえられた。その中には茅などの草を厚く敷き、その上を風雨を防ぐ草葺きの小屋で囲い、そこに冬の間に氷の張った池から氷塊を切り出して保管していた。夏になると、都の貴族たちは氷室で貯蔵した氷塊を宮中に運ばせ、さまざまに加工して涼をとった。
平安時代には、京都周辺に氷室が6ヶ所ほどあったとされる。唯一、北区大宮西賀茂氷室町にある氷室跡は今も見ることができる。この氷室は標高約450mにあり、京都市内よりも6℃ほど気温が低く、昔、周辺は雪が多かったようだ。
氷室神社
氷室跡の石碑
さて、氷室から御所に献上された氷は、どのように使われていたのだろう。
平安時代の文学『枕草子』や『源氏物語』には、「削り氷(ひ)」が登場する。小刀で氷塊を削り、それに砂糖代わりに使われていたアマヅラの蜜をかけ、銀の器に入れて食されていたのが、削り氷だった。アマヅラはツタの汁を煮詰めたシロップのようなもので、現代のかき氷の先駆けといえる。また、『源氏物語』にはご飯に氷水をかけた水飯を食べるシーンや氷を肌に当てて涼むシーンも描かれている。平安時代の京都の夏も、とても暑かったのだろう。
現代のかき氷
ところで、氷には他にも重要な用途があった。毎年元旦の節会には、宮内省に属し水に関することに従事した主水司が各地の氷室から氷の出来具合を報告させ、その年の吉凶を占った。氷が厚いと豊年、逆に薄いと凶年の兆しとされた。また、酒や食料の冷蔵保存としても用いられた。そして遺体の腐りやすい夏場は、現代のドライアイスの代わりに、遺体の腐敗防止に氷が活用されていた。三位以上の貴族にのみ、氷の使用が許されたという。
夏の間、氷室から宮中へ運ばれてきた氷の量は一日に500~800kg、年間約80tにものぼった。その作業を担当する役人と役夫は約800人いたと聞く。盛夏期には氷室から御所まで運搬作業が毎日続いた。氷塊は約112㎏の重さで、2人の役夫が緋幡の標識を立てた馬の口取りをして、夜明け前のもっとも涼しい時間帯に早駆けで搬送した。氷室の里から御所まで約10㎞の道のりを3時間ほどで運んだといわれる。
古地図に見える氷室(真ん中上方)
酷暑の中、6ヶ所あったと言われる氷室から時間に急かされ、自分たちが決して口にすることのない重い氷塊を運ぶ作業は、過酷だった。時に、死人も出た。右京区宇多野にある宇多野福王子神社の本殿傍らの末社・夫荒社には、任務が果たせずに行き倒れた役夫や馬が夫荒神として祀られている。貴族たちが優雅に削り氷を口にしている裏で、多くの役夫や馬たちの命が失われていたのだ。
宇多野福王子神社の末社・夫荒社
そうした氷は貴重で、庶民には高嶺の花だった。それでも彼らはたくましい。氷の代わりに、小麦粉でだんごを作って三角に切り、氷に見立てて食した。気持ちだけでも涼しく、という庶民の知恵と工夫の詰まった菓子、それが水無月の始まりだった。
この時期だけ京都の和菓子屋やスーパーで販売される、水無月。昔の氷室の役夫や馬たちの労働に敬意を払いつつ、水無月を食べて暑気と魔を払い、これから迎える本格的な夏を乗り切りたい。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。