[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
PR
福は内、鬼は外――。節分には、吉田神社や廬山寺、千本釈迦堂など、京都でも多くの寺社で鬼や厄災を払う行事がおこなわれる。節分に豆をまいて鬼を払うのは、古来より穀物や果物には魔除けの力があると信じられてきたことに由来するのかもしれない。
千本釈迦堂の節分祭
この追い払われる「鬼」の代表格として、京都で最も知られているのが、酒呑童子(しゅてんどうじ)だろう。その伝説を調べてみた。
一条帝の御代、都は天変地変に見舞われ、女たちが行方知れずになる事件が多発する。陰陽師・安倍晴明に占わせると、京都の西、大江山に巣くう鬼たちの仕業だと判明。そこで源頼光らの武者が集められ、討伐に向かう。神仏の助力を得、策略で酒に酔わせ、鬼たちを退治するが、その鬼の頭目だったのが、身の丈約3メートル、大酒をあおっては人をさらい、その肉を喰らっていた酒呑童子だった。
その酒呑童子を退治して切り落とした首を埋めたと今に伝わる鬼塚が、京都市内にある。
京都市と亀岡市の境にある老ノ坂トンネルの京都側から南へ脇道を行った先、旧老ノ坂峠にあるその塚は、今に「首塚大明神」と呼ばれ、京都の魔界スポットでも、よく取り上げられる場所になっている。 さっそく取材探訪してみた。
老ノ坂トンネル
旧老ノ坂峠の「従是東山城国」の石標からすぐ、石の鳥居が見える。
これより東、山城国(京都)の道標
首塚大明神
木の根が縦横に張り出し、木立に被われて昼なお暗い参道を上っていくと、鳥居と小さな社が現れる。そして木枠の中に石が積まれた首塚があった。
首塚大明神への参道を覆う根株
この社の由緒によれば、酒呑童子とその一族を征伐した源頼光ら四天王が、その首級を京に持ち帰ろうとしたが、この老ノ坂峠に立つ子安(こやす)地蔵尊に「不浄なものを天子様の都に持ち込むことはならん」とたしなめられ、この峠に首を埋めて封じたという。
その日は雲行きもあやしく、ほかに訪れる人もなかった。前もってライター仲間から、「強い気にあたって気分の悪くなる人もいるようだから、注意して」と聞かされていたので、長居はせず、早々に首塚を後にした。
首塚の主・酒呑童子について調べてみると、興味深いことがわかった。その正体は、実は疫病だというものだ。平安時代、一条天皇の在位期間に疱瘡が大流行し、路頭には死骸が連なるありさまだった。都人は「赤疱瘡」などと呼んで、ひどく怖れたという。酒呑童子の姿が赤鬼なのは赤疱瘡を具現化したもので、鬼たちが大酒を飲んで人肉を食らい、鬼屋敷に人骨が累々と捨てざらしにされるのは、疫病で亡くなった人たちの死体が都にあふれている様子だともいわれる。
大江山酒天童子絵巻物. 二
(国会デジタルコレクションより転載)
また、老ノ坂を含む丹波の大江山には多くの山賊がいて、夜な夜な都を襲ったとされ、酒呑童子=盗賊(山賊)という説だ。他にも、丹後地方では酒呑童子=異人説が根強い。日本近海を航行していた異国船が難破して丹後半島に漂着、髪や肌の色の違った乗組員の異国人を怖れたという。つまり「鬼」の正体とは、人びとが怖れ、払うべき存在そのものを指していた。
老ノ坂旧山陰街道
ところで先の首塚大明神だが、今は首から上の病を封じるご利益があると信仰されている。古人たちは鬼のような恐ろしいものは、それを封じて祀ると、それと同等の恐ろしいものに対抗できると考えたらしい。
さて、今年の節分、「追儺」や「鬼やらい」の行事に参加したり、家庭で豆まきをする人たちも多いだろう。皆、どのような鬼をどのように払って春分を迎えるのだろうか。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。