王道から大人の味わいまで![ホテル日航プリンセス京...
その奇妙な出来事と出合ったのは、五年前の七月初旬のことだった。
“天台声明”の取材で大原を訪れていた私たちは雨模様の中、土産物店の前を過ぎ、呂川に添って参拝道を上っていった。
三千院・来迎院への参道、呂川
寺のご住職から声明を拝聴する機会を得、本堂へ入ると、燭台の明かりがほの暗く、三体の本尊がぼんやりと黄金色に浮かびあがっていた。
声明とは経に節をつけて歌詠するもの。古代インドでバラモン教の讃歌を仏教にとり入れ、経文を梵語で唱えたのが始まりで、音楽的な色彩が強く、修練は口伝だという。
また平安時代初期、この大原は最澄の直弟子の慈覚大師円仁が、唐から学んだ声明の修練道場として開山した場所。隆盛時は四九の坊があり、声明を修練する僧侶や貴族が集い、妙音のこだまする里として知られていた。
大原の里
雨音が静かに響く堂内で、住職に経の一文「総礼伽陀」を声明で唱えていただいた。住職の口にされる声明のひと節ひと節は難しかったが、心に染みて、しだいに気持ちがひきしまり、自然に三尊を拝して合掌し、こうべを垂れていた。
声明を体に染みこませた私たちは、寺を後にし、天台声明中興の祖「良忍上人御廟」に参拝、その足で上人ゆかりの「音無(おとなし)の滝」へと向かった。
音無の滝
(実際に数枚撮った中の一枚で、不思議なモノは写っていない写真を掲載)
この滝は、江戸時代の地誌『都名所図会』にも紹介されている名瀑で、良忍上人が滝の流れに向って声明の修行をしていると、滝の音と声明の声が和して、ついには滝の音が聞こえなくなったことから、その名がついたといわれている。以来、多くの修行僧たちが日々、この滝壺の前で一身に声明の修行に励んだ。そして、ある域に達した者にだけ、見られる世界があるという。だが、修行半ばで挫折し、滝壺に身を投げた修行者も多くいたと聞く。
私たちは荒い息を弾ませ、ムシムシする梅雨空の下、水量が増した音無の滝の前に立ち、先程、耳にした声明を頭のなかに甦らせながら、夢中で滝を撮影していった。
その時はさして変わった様子はなかったが、取材を終えてオフィスへ帰り、デジカメの画像をパソコンで確認していて、あっ、と叫んでしまった。
カシャ、カシャ、カシャと滝を三枚連続撮影した中の一枚だけが、滝の姿が人の顔の右半分のように見え、滝の一部分を拡大すると、上から三分の二ほど、向って左側にはっきりと、人の顔が写っていた! しかも、顔は白く、頭を丸めた端正な表情の男性だ。いや、それだけではない。あちこちに大口を開けて何か叫んでいるような、唱えているような、人の顔にも見えるモノが水飛沫に浮かび上がっている。他の画像を確認するが、写っているのはこの一枚だけだった。
ふと、あるカメラマンから聞いていた注意を思い出した。
雨降りの午前中、音無の滝を撮影すると、妙なモノが写り込むことがある――。この一枚は、現世と幽界の扉が開いた瞬間だったのか?
それから五年、その摩訶不思議な写真はプリントアウトしてオフィスの神棚に立て、水と塩を供え、私たちのオフィスの守護神として大切に祀っている。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。