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2020.7.1
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明智光秀の娘、信仰に生きた細川ガラシャゆかりの宮津へ

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
花は花なれ 人も人なれ

明智光秀の娘、細川ガラシャの辞世の歌だ。

戦国時代、ガラシャは波乱の生涯を送る。
ガラシャゆかりの地、京都府北部の宮津市の民家で偶然、細川ガラシャゆかりと伝わる庭石に出合った。高さは1.2mほどだろうか。さほど広くはない庭先で、石の存在感が際立っている。

細川ガラシャのプロフィールをざっとたどってみる。明智光秀の三女といわれ、名を玉(玉子)といった。美しく聡明だったといわれる玉は、織田信長の命で細川藤孝(幽斎)の息子で同じ16歳の忠興と結婚する。光秀と細川藤孝は盟友だった。それに信長の口添えだったこともあって、当時、ふたりの結婚は羨望の的だったという。ところが、玉が幸せだったのはほんの数年。おもってもみない悲劇に見舞われる。本能寺の変だ。

父の光秀が主君の織田信長を討ち、豊臣秀吉に敗れたことで、玉の人生は一変。城主の奥方から謀反人の娘に転落する。その頃、丹後の宮津城に暮らしていた玉は人里離れた丹後の味土野(みどの)の地に約2年間、幽閉。忠興との復縁をゆるされた後も、大阪での生活は幽閉に近いものだった。心の行き場を失った玉はキリスト教への信仰に目覚め、洗礼を受け、ガラシャとなった。その後、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成方の人質になるのを拒み、家臣の手で命を絶ち、燃える城の中で生涯を閉じた。


教会を背後に立つガラシャ像

そのガラシャが2年の間、味土野の地に幽閉されたとき、彼女のための館が築かれた。玉の住まいとして女城、谷を隔てて警備する者たちが住む男城があったとされる。館を築く際に、丹後地方の谷から岩や木が切り出された。その切り出した岩の一部だと伝わる石が、先に紹介した民家の庭先に残っていた。


(左)玉(ガラシャ)の味土野の館を造る際に切り出されたと伝わる庭石(右)大手川ふれあい広場に立つガラシャ像

家の方にお話を伺うと、もとは丹後の味土野より少し西北に位置する弥栄町で古くから茶屋をしていた実家にあったものだそうだ。代々、「ガラシャさんの館を造る時に切り出した石の一部や」と伝え聞いていたという。その経緯は聞いていないが、「館に使われなかった石を、先祖が何かのツテでもらってきたんやろう」とのこと。

そして、「ガラシャさんの命日が近くなると、着物姿の女性の影がスッと石に映ると言われています。ガラシャさんやないかと思うのですが、私はまだ見たことがないのです」と、つけ加えられた。

約400年を経て、光秀が主役の大河ドラマ放送の年にガラシャゆかりの石に出会えるのも、何かの縁だ。間近で見ると、あきらかに切り出した跡があり、天然のままではないとわかる。細川ガラシャ(玉)の悲劇も含め、それよりもっと前の時代から、さまざまな歴史を見てきた石だといえる。石が何かを語りかけてくるわけではないが、触ってみると、なんとなく指先から悠久の時の流れが染み込んでくるような気がした。


玉と忠興が暮らした宮津城から移築された太鼓門


海城である宮津城から天橋立が眺められた。見づらいが、山と海の境に緑の線が横たわっているのが、天橋立

京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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