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2019.7.1
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織田信長の甥・十界因果居士と京北町「滝又の滝」

今年、京都は観測史上、最も遅い梅雨入りとなった。おかげで六月は比較的爽やかに過ごすことができた。その間、暑気払いを求めて、京北町まで足をのばしてみた。

JRバス「周山」行きに乗車、京北町の細野口バス停で下車し、「滝又の滝(たきまたのたき)」を目指した。安土桃山時代の覇者、織田信長の甥・十界因果居士ゆかりの滝で、清々しい木立の中を歩いていくと、渓流沿いに出た。最高気温30℃も何のその、マイナスイオン効果で、心身ともに爽快さが増していく。


JRバス細野口バス停


滝又の滝めざして山道をゆく


途中で出合った!
二股の木の根元にお稲荷さん?


川の水が澄んでいる。左側には魚も

山歩きを楽しんでいると、唐突に彫刻の門が出現。


突如、現れる門!

それからは、壁面をくりぬいた洞窟の中に、一体ずつ安置された石仏が次々と姿を現した。誰が何のために、ここに仏像を彫って安置したのだろう!? 山肌に突如現れる仏様に驚くと同時に、しばし神秘的な気分に浸った。石仏群の途中の分岐で、滝又の滝への道へ進路を取る。


彫られた山肌の穴の中に仏像が!


次々と仏像が現れる

 

しばらく行くと、滝へ到着。大きい滝ではないが、二段に分かれて落下する様子はなかなか見応えがあった。

この滝の名付け親が、織田信長の甥・十界因果居士(じっかいいんがこじ)だと伝えられる。本能寺の変の後、十界因果居士はこの滝の上に隠れ住み、ここで滝行をしたという。今でも京都の街から遠く、山中にあるこの滝である。本能寺の変以前は、なおさら陸の孤島だったに違いない。では、なぜ十界因果居士はこの場所に隠れ住まなければいけなかったのだろう。


十界因果居士ゆかりの滝又の滝

その背景には、次のような歴史的エピソードがあった。

信長の時代、安土でも京都の法華宗の勢いが増していた。法華宗の力を削ぎたいと考えていた信長は、日蓮宗と浄土宗とに宗教問答を命じる。俗に、「安土宗論」と呼ばれる、それだ。その判定をした一人が十界因果居士だった。結果は日蓮宗が敗北し、問答をした僧たちは袈裟を剥がれ、打擲され、屈辱的な誓約をさせる。また、巨額の上納金も支払った。が、この判定の裏には、京都だけでなく信長のお膝元の安土や岐阜で勢力を増していく日蓮宗を押さえ込みたい信長が仕組み、その意向を受けた十界因果居士が浄土宗を有利に導き、勝利させたという陰謀説も囁かれている。

ところが信長亡き後、情勢は一変。十界因果居士は法華宗の報復を免れるため、京北の山奥にひっそりと暮らしたようだ。宗教問答の法華宗側の僧侶と本能寺の変を起こした明智光秀は親交があったというから、ひょっとするとあの大事件の引き金の一つに、法華宗の恨みがあったのかもしれない。いつの時代でも、人の世こそ「魔」が棲んでいるのかも。

滝又の滝へ行く途中に立つ看板には、宗教問答で日蓮宗と対決した高僧の一人が十界因果居士だと記されていた。そんな歴史の1ページに思いを馳せながら、滝から吹いてくる風の涼しさと水音に心地良さを覚えつつ、滝又の滝を後にした。


細野の町を歩いていると夏の花・テッセンが咲いていた

京都の摩訶異探訪とは

京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。

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