[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
PR
一年で最も満月が美しいといわれる仲秋の名月。今年は9月24日(旧暦8月15日)が、それにあたり、京都では各所で名月を愛でる観月の宴が催される。
中秋の名月
昔から多くの人たちが、この季節の名月に魅せられてきた。が、それは人だけでなく、「魔」もまた、例外ではない。
満月の夜の魔物といえば、西洋では狼男が知られる。古くは日本でも、名月の夜には魔物がよく出歩いたようだ。『今昔物語集』などでは、次のような事件を収録している。
平安時代中期、小松(光考)天皇の御代のこと。当時、大内裏の武徳殿の東に広い松林があり、「宴の松原」と呼ばれていた。
『国史参照地図』(国会デジタルコレクション所蔵)
※赤く囲んでいる部分が大内裏と宴の松原にあたる
平安宮復元イラスト(看板から)
※赤く囲んでいる部分が大内裏と宴の松原にあたる
中秋の名月の頃の、月の明るい夜だった。宴の松原を三人の若い女が通りかかった。すると、松林から若く美しい男が現れた。男は三人の女のうち、一人の女の手をとって松の木陰へと誘った。
残された二人の女が松林の外で待っていると、男女の話し声がふいに途切れた。松林の中は静まりかえった。待てども待てども女は戻って来ない。怪しんだ二人の女は松林へ入ったが、男と女の姿は見当たらない。
いったいどこへ……?
何気なく足下を見下ろして、二人の女は肝を潰した。 月の光に照らし出された女の手と足がばらばらに落ちている。さては、鬼が男に化けて女を食らったに違いない。大内裏は大騒ぎになった。
この奇っ怪事件は、清和・陽成・光孝の三代天皇の時代を記した史書『日本三代実録』にも記録されている。正史が怪事件を取り上げて鬼の仕業としているのは、とても珍しい例だと聞く。
大内裏の中になぜ、広大な松林があったのかは、未だ、はっきりしていない。松林がちょうど内裏と対照をなす位置にあることから内裏を立て替える際の代替地だったとする説が、一般的だ。また、宴の松原という名前から、饗宴が催された場所だとも伝えられる。ただ、電気のない時代、月明かりだけの松林は深閑として人通りも絶え、松の影が黒ぐろとして、さぞや不気味だったことだろう。
バラバラ殺人事件の他にも、今昔物語集は次のような不思議な話を伝えている。
9月半ばの月の明るい夜、男が宴の松原の辺りを通りかかると、美しい女童に出会った。だが、女童が扇で顔を隠しているのを不審に思った男は、女童の髪をつかみ、刀を首にさし当てた。と、突然、女童は臭い小便を男に引っかけ「こんっ」と鳴いて走り去った。
別の話もある。
ある夜、男が美しい女と出会って一晩の契りを結ぶ。女は契りを結んだことで自分は死ぬ、死んだら法華経を書き写し供養してほしいと言い残し、男の扇を受け取った。翌日、男が武徳殿辺りに行ってみると、一匹の狐が男の渡した扇で顔を覆ったまま死んでいた。そこで男は法華経を書き写し供養してやった。ほかにも、ある男が肝試しをしていて、宴の松林の中から得たいの知れない声がし、慌てて逃げ帰った話が残る。
当時の人々にとって宴の松原は、狐狸妖怪の出没する魔所として気味悪がられていたことが窺える。現在、その場所には上京区出水通千本西入に石碑がぽつんと残るだけだ。住宅街を歩いてみたが、かつてこの辺りに鬼が出た宴の松原を想像するのは難しかった。
宴の松原の石碑と周辺の様子
宴の松原の石碑
ようやく猛暑がおさまり、涼を含んだ夜風を感じつつ、そぞろ歩いて名月を楽しみたいものだ。が、月明かりに出会った美男美女には気をつけた方がいいのかもしれない……。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。