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♪京の、京の大仏さんは 天火で焼けてな♪
これは昔、京都の子どもたちが歌った、わらべ歌の一節である。
この歌にあるように、かつて京都には、奈良の東大寺の大仏をしのぐ、像高6丈3尺(19メートル)の巨大な大仏が鎮座していたことがあった。その場所は、現在の東山区正面通大和大路東入茶屋町にある方広寺である。
方広寺
古絵葉書にその姿を残す京の大仏
大仏が鎮座していた当時、寺は「京の大仏殿」として知られていた。その大仏を建立したのが、とにかく天下一好きで、とくに大きなものが大好きだったという天下人・豊臣秀吉だった。
だが、この大仏にはその後、数奇な運命(不運)がもたらされることになる。まるで秀吉の晩年、いや豊臣家の命運を暗示していたかのように。
完成間近だった大仏を襲った最初の不運は、慶長元年(1596)の伏見大地震だった。この地震で大仏はあえなく倒壊してしまう。衝撃を受けた秀吉は毎夜、奇異な夢にさいなまれるようになり、ついに病に倒れ、大仏の完成を見ることなく、死去したという。
父・秀吉の意思を受け継いで大仏再興に尽力したのが、秀吉の一子・豊臣秀頼だった。ところが、慶長7(1602)年、大仏再興の工事中に怪火で全焼。その後、秀頼によって再興されたものの、この再建に際して鋳造された大釣鐘の銘文の中の「国家安康」の部分が秀吉亡き後の天下を狙う徳川家康から「家康の胴を斬るものだ」と難癖をつけられる。
梵鐘の国家安康、君臣豊楽の文字が
白く囲われている
結果、豊臣家滅亡の発端になってしまったことは、有名だ。この鐘は今も方広寺に残されていて、見ることができる。
方広寺境内の梵鐘
以前、取材でお寺の方に見せていただいたことがあった。その際、見せていただいた鐘の内側には、ぼんやりとしているが、人の形をしたシミがあった。そのシミは、徳川家を恨んで亡くなった秀吉の側室・淀殿の姿だと言われている、と聞いた。
さて、京の大仏だが、豊臣家が滅んだ後も倒壊と再建を繰り返し、大仏の銅像は銅銭の材料となり、木像に改められたが、寛政10(1798)年の夏の夜に発生した落雷によって、またも大仏は灰燼に帰してしまう。
その罹災時に歌われたのが、♪京の、京の大仏さんは 天火で焼けてな♪ のわらべ歌で、歌が言う「天火」とは、落雷のことだった。
そうしてしばらく、京の大仏は再興されずにいたが、約50年後の天保14(1843)年に半身の大仏として再興された。が、130年後の昭和48(1973)年にまたも焼失。この時の火災は、不審火だったとも言われている。その後、現在まで再建はなされていない。
ところで、先ほどのわらべ歌は次のような歌詞で終わるらしい。
♪うしろの正面 どなた お猿 キャッ キャッ キャッ♪
「お猿」というのは、秀吉を揶揄したものだろうか? それとも、親しみを込めて、そう歌ったのだろうか?
かつて観光名所のひとつだった京の大仏。いつの日か、再建される時が来れば、また新たな観光スポットと逸話が生まれるかもしれない。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。