[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
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北白川の入口、今出川通と志賀越道がY字に交わる交差点の北西に、ひときわ大きな石仏が祀られているのを、ご存知だろうか。車の往来の激しい通りの一角に、どっしりと構える巨大な石仏は、振り返って見てしまうほど、インパクトがある。
志賀越(山中越)道の標識
それは北白川の三体石仏のひとつで、「白川子安観世音」と呼ばれる高さ約2mの石仏だ。この石仏が作られたのは、鎌倉時代といわれ、この辺りで採れる白川石を素材に彫られたものだった。長い年月の間に風化して、その巨体は丸みを帯びているが、それがかえって大らかで優しい雰囲気を醸し出している。
今出川通から見える「子安観世音」
近づいて見ると大らかで優しい雰囲気を感じられる
この石仏には、次のようなエピソードが今に伝わっている。
安土桃山時代のこと、洛中で妙な噂が囁かれ出した。「時折、白川の石仏が歩く」というのである。その噂が天下人になった豊臣秀吉の耳に入った。大きい物好きの秀吉は、「おお、それほど巨大で霊力を発揮する石仏であれば、天下人の居城を護るにふさわしい」と、強引に石仏を聚楽第の庭に運ばせ、眺めて楽しんでいた。
ところが、城中に奇妙な噂が広まり出した。夜な夜な「白川に戻せ」と石仏が懇願する声が聞こえるという。その声を聞いた人々は気味悪がったり、気の毒がったりした。とうとう秀吉も折れ、石仏は元の地に戻されたとのこと。
また、文政13(1830)年、白川村で大火があり、その際に石仏の両手と首が折れてしまった。それ以来、「首切れ地蔵」とも呼ばれるようになったそうである。
やがてこの石仏は白川村の入口である現在の地に移され、子どもたちの安全にご利益がある「子安観世音」として信仰されるようになった。
以前、トラックがこの石仏にぶつかり、首が落ちる事故があった。だが、子どもが巻き込まれる事故は一度も起きていないと聞く。石仏が子どもを事故から守ってくれているのだと地域の人々は口をそろえる。
白川といえば、「花いりまへんか~」と頭上の箕に花を乗せて売り歩く、「白川女」が有名だ。昔から白川女たちは必ず、この石仏に花を添え、商売繁盛と安全を祈願してから商いに出た。
100年前の絵葉書にみる、白川女
さて、お気に入りの巨大な石仏を元の場所に戻させた秀吉だったが、どうしても巨大な石仏を諦めきれない。
そうして秀吉は、近くに別の二体の巨大な石仏があることを知る。現在、北白川の三体石仏として知られるうちの二体がその石仏で、室町幕府八代将軍・足利義政が銀閣寺へ行く途中、常に参拝していたという。それを知った秀吉は、そのうちの一体を聚楽第へ運ばせた。こちらは「返せ」とは叫ばなかったようで、長く聚楽第に置かれていたそうだ。
伝え聞くところでは、石仏は一体だけが白川に残されたが、いつしかその隣りにもう一体が安置され、二体が仲良く並ぶ今の姿になって街を見守り続けている。
志賀越道(山中越)旧道の途中にある
二体の大日如来の石仏
取材をさせていただいた地域の古老の方によると、「あの子安観世音さんは、今でも時々、動かはるそうやで」と、ナイショ事のように教えてくれた。
巨大な石仏は地域の安全のためにこっそりと、夜回り先生ならぬ「夜回りさん」をしてくれているのかもしれない……。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。