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かつて京都に、市街地の約半分がすっぽり入るほどの巨大な池「巨椋池(おぐらいけ)」があったことを知る人は少ないと聞いている。
池は京都の南、宇治川・木津川・桂川の三大河川が合流する遊水地帯にあった。大きさは周囲約16km、面積約800ヘクタールだったという。太古にあった旧山城湖の名残で、万葉集で柿本人麻呂が「巨椋の入江響るなり射目人の 伏見が田居に雁渡るらし」詠んだことでも知られる景勝地だった。また蓮の名所として、昭和初期まで「蓮見の舟」が出て、夏の風物詩となっていた。
巨椋池
『京都府史蹟勝地調査会報告. 第8冊』(昭和2)
(国立国会図書館ウェブサイトより転載)
また、桓武天皇が平安京に遷都する際、巨椋池は陰陽道でいう四神相応図(東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)の朱雀にあたるとされ、都の南を守護する役目を果たしてきた。その巨椋池も時代と共に形を変え、昭和8年から始まった国の干拓事業によって、地図上から姿を消した。今、跡地には向島ニュータウンや工場、水田が広がっている。
昔なら巨椋池の中にある向島駅から、
現在の巨椋池干拓地を望む
ところで、この巨椋池には風光明媚なイメージとも、朱雀としての役割とも相反する、奇っ怪な伝説が残っている。江戸時代初期に発刊された怪談集『伽婢子(とぎぼうこ)』の中の「人面瘡(じんめんそう)」という話が、それだ。
昔、巨椋で農業をしている男が高熱とひどい寒気にくり返し襲われた。病状は悪化し、左股の上にデキモノができて痛んだ。しだいにそのデキモノは大きくなり、とうとう人間の顔そっくりになった。ためしに男がデキモノの口に酒を注ぐと、ごくごくと呑み干し、ご飯を与えるともぐもぐと飲み込んだ。デキモノが何かを口に含んでいる時だけ、痛みが消えた。痛いわ、気味が悪いわで、方々の医者に診せたがどうにもならない。
そこへ諸国行脚している僧が巡り合わせ、片っ端から様々なものをデキモノに食べさせた。すると、貝母(ばいも)だけは決して食べようとしなかった。そこで僧は貝母を粉にして葦の筒に詰め、デキモノの口にねじ込み、吹き入れ続けた結果、デキモノにかさぶたが出き、完治したという。
この治療薬に使われた貝母はユリ科の植物で、漢方薬でもあるようだ。それにしても、なぜ、この地域で気味の悪い伝説が生まれたのだろうか。ヒントは、この巨大な池が消失した理由のひとつに隠されていた。
実は、巨椋池の干拓事業は、水質の汚染によって発生する風土病「オコリ」や度重なる洪水の被害を防止するためだったときく。オコリというのは、発熱と悪寒を繰り返すマラリアのような病気とのこと。昭和初期、死滅湖となっていた巨椋池は蚊の発生源となり、池周辺でマラリアが大発生し、沿岸の19町村がマラリヤ流行指定地とされている。地元の人たちはそれをオコリと呼んで恐れたときくが、症状は「人面瘡」の男と似ている。昔から池の周辺ではオコリが周期的に発生し、こういった怪談を生んだのかもしれない。
マラリア指定地図
『「マラリア」予防撲滅事業成績調査報告』(昭和11)
(国立国会図書館ウェブサイトより転載)
今、巨椋池の周辺は様変わりして、往時の姿を偲ぶことはできない。だが取材中に、地元の資料館の方から興味深い話を伺った。
というのも、一見、池は消滅したように見えるが、実際は水田や住宅街の下に、碁盤の目のように描かれた承水溝水路、排水幹線水路が縦横に走っていて、池の水は今も周囲の田畑を潤しているというのだ。それに今でも、水田の土を起こせば蓮の種が出てくるという。
確かに周辺を歩いていると、あちこちに排水溝が見られ、ちょろちょろと水音がする。平安京の朱雀・巨椋池は失われたのでなく、姿を変えただけだった! 池が生き続け、人が生き続ける以上、この先、また新たな巨椋池の伝説が生まれても不思議ではない。
「0の通り」という面白い通り。
昔の巨椋池の中にある
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。