[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
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トンネルに関する都市伝説は、やはり「出る!」というもの。京都にもその手の噂があるトンネルが幾つかある。その一つが、落合トンネルだ。
落合トンネルへは、清滝から清滝川の渓流沿いを行くルートと嵯峨六丁峠を越えていくルート、JR保津峡駅からのルートがある。トンネル名となった落合の地名は、清滝川と保津川が合流する地点をいう。そこに落合橋が架かる。木々の緑の中で赤い橋は目にも鮮やかだ。昔から周辺は、紅葉スポットとして賑わった場所でもある。
緑に映える落合橋と清滝川
私たちが奥嵯峨の古道探索の取材を終え、帰路、府道50号線をJR保津峡駅へ向かっていた時のこと。落合橋を渡って、すぐにある落合トンネルに足を踏み入れた。トンネルは車幅約4m、延長80mほど、向こうに出口の明かりが見えている。
落合橋と落合トンネル
トンネル内は暗く、ヒンヤリしていた。
出口に近づいた時だった。突然、背後から
「国鉄保津峡駅へ行かれるのですか?」
と声を掛けられた。振り向くと、ハイカーらしき年配の男性だった。「トンネルを抜けた先に、絶景が見られる場所がありますよ」と教えてくれた。「ぜひ、見たい」というと、案内してくれるという。
さっそく男性に続いて、通り抜けた落合トンネルの左脇から保津峡へ伸びる土道をトンネルの山際に沿って進んでいった。男性の背負ったリュックは随分くたびれていて、相当あちこちを歩いているようだった。土道がカーブにきたところで、わーっ、と声が出た。眼下に絶景が広がったからだ!
絶景ポイントから見た保津川下り
私たちが立っている場所は、保津川の切り立った巨岩のちょうど真上辺り。真下に飛沫をあげ、迫力満点の保津川の流れがあった。景色を堪能していると、上流から、キャア、キャアとにぎやかな声が聞こえてきた。眼下に保津川下りの船が姿を現した。船頭さんが荒い岩場を熟練した技で櫂を操っていく。こんな場所に絶景があったとは!
ところが、この辺りは絶景の裏側で、多くの事故が報告されている。ハイカーや山菜採りの人がたびたび保津川へ転落、水死する人が出るという。保津川下りの船頭さんが遺体を発見することが多いそうだ。
また、この場所からさほど離れていない場所では、過去に、金閣寺放火事件で知られる僧の母親が、金閣寺へ謝罪に行った帰り、当時の国鉄山陰線の汽車から保津川へ飛び込んで亡くなっている。その遺体を運んだのも船頭さんだった。そして昨年、保津川下りの船長さんが川へ転落死されたニュースは記憶に新しい。これまでに水難・滑落事故や飛び込みなど、多くの死者を呑み込んできたのも、清滝川や保津川のもう一つの姿だった。
眼下の景色をカメラにおさめ、そういえば、この絶景を教えてくれたハイカーの男性に、お礼をまだ言っていないことに気がついた。だが、あれっ、その男性の姿がない!
周囲を見渡すと、岩肌にへばりつくように細い道が先へと続いていた。ああ、きっとこの道を行かれたのにちがいない。けれども、「お先に」とも言わずに黙って行ってしまうなんて、変わった人だなと思った。
そうして先程の分かれ道に戻った。目の前には落合トンネルがあり、暗い穴の向こうに、赤い橋が見えている。昔は、あの落合橋から眼下の清滝川に飛び込んで亡くなる人があったらしい。トンネル内から涼しく湿った風が吹いてきて、汗の浮いた首筋を撫でた。ふいに、さっきのハイカーが「国鉄」と言っていたことを思い出した。それなのに、ハイカーの顔は、思い出せない……。
昭和初期の落合橋の絵葉書。
まだトンネルは出来ていない(著者所蔵)
私たちはなんとなく落ち着かない気分になって、トンネルに背を向け、JR保津峡駅を目指して歩き出した。自然と早足になったのは、言うまでもない。こういう体験が、都市伝説になっていくのだろうか?
昭和初期の絵葉書。
奥に落合橋が見える(著者所蔵)
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。