[フォションホテル京都]にあまおうビュッフェとあま...
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京都を代表する景勝地「嵐山」。この地は昔も、桜や紅葉を愛でる別業(別荘)の場所として、都の貴族や権力者たちに親しまれてきた。
だが、日が暮れれば狐狸妖怪の棲む、寂しい洛外の地でもあった。嵐山を「あやしやま」と呼んだ人もあったという。
嵐山といえば渡月橋
その嵐山には、事実に基づいた次のような伝説が今に残っている。
明応9年(1500)のこと、後土御門天皇が崩御され、喪に服す間、殺生が禁じられた。保津川を漁場とする一人の漁夫は、喪が明けるまでの間、上流から嵐山へと筏を流し送る仕事をはじめた。その漁夫には商家に奉公に出した息子があった。だが、息子は主人の娘と叶わぬ恋に落ち、剃髪して保津川の上流にある荒れた御堂に隠れ住んでいた。
ある日、息子は恋しい娘が御堂の奥へ入っていくのを見て、気が狂わんばかりに後を追う。しかし、そこで見つけたのは娘に瓜二つの観音菩薩だった。彼は観音像を娘だと思い込もうとするが、やがて絶望し、保津川へ身を投げる。
一方、漁獲が解禁になり、漁夫は再び川へ投網を開始した。すると、経験した事がないほどの手応えが。「大漁だ」と漁夫は喜び、網をたぐり寄せて、仰天した。なんと、網の中身は、観音菩薩の像を抱いた息子の亡骸だったのだ。
この伝説は、明治31年にイギリスから日本にやって来た博物学者・リチャード・ゴードン・スミスも、日本滞在中に採取したとして記しているのだが、漁夫の息子の死体があがった場所までは書かれていない。おそらくこの辺りではないかと思うのが、嵐山の保津川右岸にある「千鳥ヶ淵」だ。
久しぶりに、私たちは千鳥ヶ淵へ足を進めた。渡月橋小橋を渡って右へ折れ、保津川沿いに大悲閣へ向かう散策道を歩く。
渡月橋を大悲閣への散策道から眺めてみた
しばらく行くと上り坂があり、その坂を下り終えると、川岸に岩肌が広がる。この辺りが、昔から「千鳥ヶ淵」と呼ばれる嵐山の裏名所である。
この淵は、平安時代の末期、平清盛の建礼門院の侍女・横笛が身を投げたと伝えられる場所でもある。千年も前の伝説だと片付けられないのは、昭和に入っても、密かに「自死の名所」などと噂が囁かれ、この淵に身を投げる者が相次いだからだ。
大正末〜昭和初めの千鳥ヶ淵辺りを取った絵葉書(著者所蔵)
10年ほど前のこと。私たちは取材中に、以前この千鳥ヶ淵の浜で茶店を営んでいた老女に話をうかがう機会を得た。
その老女は茶店を営んでいた時に、川で溺れていた人を三度ほど助けたという。地元の方の話では、この辺りだけ水深が極端に深く、地形のせいか流れの勢いが失われているそうだ。さらに水底は渦を巻いているともいわれ、遺体が巻き込まれるとなかなか浮かび上がってこず、浮かびあがってきた時には、死蝋化していることが多いらしい。淵の水面に向って撮影すると、水の波紋が人の顔のように映るとも聞くが……。
10年前に訪れた千鳥ヶ淵は、生い茂った樹木の枝が水面に覆い被さり、陰鬱な雰囲気を際立たせていた。それが3年前の大雨で渡月橋の付近が水没した後に改修工事がなされたのか、今は川の流れを一望でき、夏の陽ざしを浴びた水面はまばゆく輝いていた。
千鳥ヶ淵
ただ、陽ざしが明るいほど、陰は濃くなるものだ。観光名所としてにぎわう傍に、悲しい伝説や凄惨な出来事が潜む裏名所があることも、京都の奥深い一面なのかもしれない。
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。