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近年、廃墟ばかりを撮影した写真集が数多く出版され、廃墟ツアーが人気になっている。なぜ、人は廃墟に魅了されるのだろうか?
廃墟と聞くと、おどろおどろしいイメージが先行する一方で、ノスタルジーや浪漫の響きを感じさせてくれる。日本人が愛してきた滅びの美学に通じるものが、そこにあるからだろう。
実はこの京都にも、これぞ「廃墟の聖地」といえる場所がある。旧愛宕山鉄道ケーブル(鋼索線)とその終点だった愛宕駅だ。
愛宕山は、火伏せの神として知られる愛宕神社を懐に抱く、京の西の霊山である。昭和4年(1929)の夏、その霊山に愛宕山ケーブルが開業した。当時、ケーブルは営業距離と高低差は東洋一だと脚光を浴び、山中にはスキー場やホテル、飛行塔のある遊園地などがオープンして大勢の人で賑わった。
当時のケーブル愛宕駅舎の写真
ところが、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、日本の敗戦が濃厚になり、愛宕山ケーブルは「不要不急鉄道」とされ、鉄供出のために廃線となってしまう。それから約70年の時を経て、今では幻の鉄道として廃線マニアたちの密かな人気スポットとなっている。
この愛宕山ケーブル駅舎跡へは愛宕神社表山道を水尾の別れまで登り、さらに社の山門(黒門)へ向かう。少し進むと右手側に脇道がある。それが愛宕駅跡へ至る道だ。脇道に入る古木の根元には探訪者が入口の目印として置いてゆくのか、拳大の平たい石が幾つも積み上げられていた。
愛宕神社参道から脇道へ。
木の根元に置かれた石が目印
少し進むと建物の残骸らしきコンクリートの塊に出会えた。この辺りには料理旅館や土産物屋などが立ち並んでいたというから、その一部かもしれない。
さらに歩くと突然、目の前がパッと開け、旧愛宕駅の廃舎が現われた。
ケーブル愛宕駅舎跡
初夏を思わせる陽ざしの下で、それは緑のつる草に覆われていた。駅舎跡は一見、モダンな洋館という感じで、不気味さはあまり感じなかった。建物に近づくと、柱はぼろぼろで壁も天井もいつ崩れても不思議でないほど荒れ果てている。事故があっても自己責任だと思いながら、ゆっくりと建物の内部へ足を踏み入れた。
そこには日常とかけ離れた、異質な空間が広がっていた。
駅舎跡1階の内部
コンクリート剥き出しの天井や壁、床。そして窓があったらしき部分にガラスは嵌まっておらず、吹き曝しだ。建物は正面から見た時は2階建に見えたが、地下1階、地上2階建の三層構造になっていた。駅舎として盛況だった当時は、地下にはケーブルを運転する機械室が設けられ、1階は待合所や改札口、2階には愛宕食堂があり、カレーライスやタンシチューが人気を集めたと聞く。2階へ向かう階段はそのまま残されていたので上がってみた。
食堂があったという2階への階段
天井には亀裂が入り、長年の雨漏りで溶け出したコンクリートがツララとなって幾本も垂れ下がっている。その真下の床には水滴に混じって落下したそれが、楕円形の層を作っていて、まるで小さな鍾乳石だ。
天井が溶けて、小さなツララ状態に
かつて、ここには人の営みが確かに存在した。そう思うと、とたんに感傷的な気分になってきた。訪れる人がいようと、忘れ去られようと、この駅舎跡はすべて、時間とともに静かに朽ち果てていくのだ。
霊山に抱かれた「異形」を脳裏にやきつけ、廃墟と真逆にむせかえるほど生命力に満ちた新緑の中を、ケーブルの廃線跡をたどって下山した。
廃線跡のトンネル
京都の街のどこでも存在する伝承。それは単なる絵空事ではなく、この現代にも密やかに息づき、常に人々と共存し続けている。1200年余りの歳月をかけて生み出された、「摩訶」不思議な京都の「異」世界を、月刊誌Leafで以前「京都の魔界探訪」の連載をしていたオフィス・TOのふたりが実際にその地を訪れながら紐解いていく。。