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祇園祭 祇園祭

日本三大祭の一つと言われ、1000年以上の歴史を持つ京都の祇園祭。疫病退散を祈願する[八坂神社](京都府京都市東山区)の神事で、毎年7月1日から31日までの1ヶ月間、京都市内や[八坂神社]でさまざまな祭事が行われます。なかでも、7月17日と7月24日に行われる34基の山鉾巡行と八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)は最大の見どころ。各鉾の歴史やご利益をチェックして、より祇園祭を楽しみましょう。

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山鉾とアクセス

祇園祭のハイライトである山鉾巡行は、7月17日の前祭(23基の山鉾)と24日の後祭(11基の山鉾)の2回に分けて行われます。各鉾の歴史や装飾も見どころのひとつ。豪華絢爛な懸装品から「動く美術館」といわれています。お気に入りを見つけて、目指して足を運んでみて。

前祭さきまつり

前祭り
長刀鉾

長刀鉾なぎなたほこ

応仁の乱よりも以前、山鉾の中で最も早い時期に創建されたといわれる。古来より「くじ取らず」の鉾として、毎年巡行の先頭にたつ。三条小鍛冶宗近が娘の病気平癒を祈願し、[八坂神社]に奉納したという大長刀の伝説に由来。疫病が流行った際に、大長刀を飾ったことで疫病が鎮静した逸話などが伝えられている。現在、生稚児が乗って巡行する唯一の鉾で、稚児による「しめ縄切り」を皮切りに、山鉾が神域へと進んでいく。そびえ立つ全長20メートルの真木の鉾頭に、宗近作の長刀(現在は複製)を掲げて、疫病邪悪を祓う。
 

ご利益:厄除け、疫病除け
函谷鉾

函谷鉾かんこほこ

中国の戦国時代、斉の孟嘗君が鶏の声でしか開かない函谷関を深夜脱出しようとする際、配下が鶏の鳴き声を真似たところ関門が開き、秦から逃れられたという故事に基づく。鉾頭に取り付けられている上向きの三日月と山型が山中の闇を表わしているという。真木は22メートル、なかほどの「天王座」には孟嘗君が祀られ、その下には雌雄の鶏がそえられている。天明の大火(1788年)で焼失した50年後に復元され、再建後は幼少期の一条実良君(明治天皇の后である昭憲皇太后の実兄)をモデルとした等身大の稚児人形、嘉多丸君(かたまるきみ)とともに巡行している。

ご利益:厄除け、疫病除け
菊水鉾

菊水鉾きくすいほこ

室町時代に町内にあった井戸・菊水井にちなんで名付けられた。天明の大火から復興したのち、幕末の兵火により焼失したが、焼け残っていた懸装品部材を用いて、1952(昭和27)年に“昭和の鉾”として、再び蘇った。まっすぐと伸びる真木には金色に輝く十六辨菊華の鉾頭、藍地に金の字で「菊水」と浮き彫りされた篆書の額が印象的。なかほどの「天王座」には、300歳まで生きたと伝えられる中国の彭祖像を祀っている。能装束で舞姿の稚児人形の名は「菊丸」。菊の露を飲んで700歳もの長寿を保ったという枕慈童(まくらじどう)を表している。
 

ご利益:不老長寿、商売繁盛
月鉾

月鉾 つきほこ

応仁の乱以前の記録では別名であったが、月を掲げ、天王座に月読尊(つくよみのみこと)を祀っていることから月鉾と呼ばれるようになった鉾。「古事記」によると、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国から戻り禊祓いをされた折、左眼を洗って天照大神(あまてらすおおみかみ)、右眼を洗って月読尊、鼻を洗って素戔嗚尊(すさのおのみこと)を生んだとされる。この時から月読尊は夜を支配する神となり、水徳の神でもあることから、こちらの鉾には月と水に関連する装飾品が多いのだそう。18金で作られた鉾頭の三日月、太陽の使いとされる八咫烏、細密な金具彫刻で覆われたウサギの彫り物など、見応えある装飾品が随所に。

ご利益:厄除け、疫病除け
鶏鉾

鶏鉾にわとりほこ

天下太平が続き、政府に不満があれば叩き訴えることができた太鼓(諫鼓)にも苔が生えて鶏たちが巣を作った、という中国故事にあやかったとの説がある。紅白で巻き付けられた三角形枠内に銅円板が挟まれた鉾頭は、諫鼓の中に鶏卵がある様子を表しているともいわれる。大人びた風貌の稚児人形は、雄鶏を飾った華麗な冠をかぶっており、船形をした「天王座」には、海の守護神・住吉明神が祀られている。16世紀頃ベルギーフランドル地方で製作され、江戸時代の初期に輸入されたと考えられる国重要文化財指定の見送り(山鉾の後ろを飾る幕)にも注目を。

ご利益:厄除け、疫病除け
放下鉾

放下鉾ほうかほこ

鉾の名の由来は、真木なかほどにある「天王座」に、放下僧の像を祀っていることから。放下とは、禅語で執着や煩悩をすべて手放すという意味をもち、芸を披露しながら街の中で仏法を説く僧のことを、放下僧というのだそう。鉾頭の形は、日・月・星の三つの光が、下界を照らす様子と光苔を表している。洲浜の形状に似ていることから「すはま鉾」とも呼ばれている。昭和4年以降より登場した稚児人形は、久邇宮多嘉王殿下より命名された「三光丸」。巡行の時には、生稚児と同様に鉾の上で愛らしくも迫力ある稚児舞を披露する。「くじ取らず」21番目の鉾。

ご利益:厄除け、疫病除け
岩戸山

岩戸山いわとやま

「古事記」や「日本書紀」に記されている「国産み」「天の岩戸」の日本神話の趣向をあわせもつ。山ではあるが鉾と同じように車輪を付けた曳山で、真木の変わりに真松を立てている。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、手力男命(たぢからおのみこと)の御神体三体を祀り、巡行時には、屋根の上に天之瓊矛(天逆鉾)をつき出した姿の伊弉諾尊の御神体を安置してすすむ。狩野永徳が描いたとされる上杉家所蔵の「洛中洛外図屏風」には、桃山時代の岩戸山(当時はあまのさかほこ山)の様子も。応仁の乱以前から存在していた記録が[八坂神社]の社宝に残る。

ご利益:開運、厄除け
船鉾

船鉾ふねほこ

「日本書紀」などに記された、神功皇后の新羅出船を由来とする。真木はなく、船形をしているのが特徴。舳頭には、江戸中期の傑作とされる想像上の瑞鳥・鷁(げき)が左右に翼を広げる。屋形内に安置される神功皇后の御神体は面をつけ、頭上には金色の冠、緋縅の大鎧をつけた勇ましい御姿だ。皇后を助ける住吉明神、鹿島明神、龍神・安曇磯良の三神像とともに出陣していく。臨月にもかかわらず男装して出征し、戦に勝って皇子を産んだとされる神功皇后にあやかり、巡行の後には御神体に巻かれた安産祈願の御腹帯が授与される。「くじ取らず」で、前祭巡行の最後を飾る。

ご利益:疫病除け、安産
山伏山

山伏山やまぶしやま

江戸時代に民間信仰として人気を集めた修験道(しゅうげんどう)・山伏。八坂にある[法観寺]の五重塔が傾いた時、法力を使って直したなどの不思議な逸話が残る天台宗の僧・浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)を祀る。御神体は修行のため紀伊山間地へと入る、大峯入りの姿。左手に刺高数珠(いらたかじゅず)、右手に斧を持ち、腰に法螺貝(ほらがい)をつけている。山鉾巡行の数日前には、[聖護院]の山伏たちによる護摩焚き、[八坂神社]の神職による清祓い、[六角堂]の僧侶による御祈祷が行われ、神仏分離以前の様子を垣間見ることも。会所の奥には無病息災を祈念する茅の輪も設置される。

ご利益:雷除け、厄除け
孟宗山

孟宗山もうそうやま

中国で優れた孝行人を24人とりあげた「二十四孝」の一人である孟宗(もうそう)が祀られ、別名を「筍山」とも呼ばれる。病身の母を養う孟宗が、母が欲する好物の筍を冬の雪の中で探し回り、苦労の末に掘りあてた場面を表す御神体は、七条大仏師康朝左京の作といわれる。唐人衣裳に笠をつけ右手に雪をかぶった筍、左手には鍬を肩にかついで立つ。山に立てられる松の木にも、雪があしらわれている。見送りは白綴地に墨で描かれた「孟宗竹林図」で竹内栖鳳の筆。色彩豊かな山鉾のなか、墨一色の筆の美しさも一際目を引く。

ご利益:親孝行
太子山

太子山たいしやま

御神体は白装束を身につけ、髪を鬟(みずら)に結った少年時代の聖徳太子。右手に斧、左手に衵扇を持つ姿は、[四天王寺]の建立にあたり、自ら材木を求めて山中に入り京都を訪れたときの逸話から。身を清める際、一時的に木に掛けた念持仏がその場所からまったく動かなくなってしまったのだという。そのため大杉で御堂を建立し安置したというエピソードで、現在の[紫雲山頂法寺(六角堂)]の縁起でもある。他の山のように松ではなく、杉が立てられているのはそのためで、厨子の中に小さな如意輪観音像を奉戴している。授与されるのは、叡智が授かる「知恵のお守り」など。

ご利益:知恵、学問成就、身代わり
郭巨山

郭巨山かっきょやま

中国の史記「二十四孝」に登場する人物の一人、郭巨の故事にまつわる山。貧困のため母と子を養えなくなった郭巨が、悩んだ末に我が子と別れる決心をした。しかし土の中からたくさんの金をみつけて、母に孝養を尽くすことも、子どもを養うこともできたという内容だ。御神体は金を発見して驚きの表情の郭巨と童子の姿。童子は右手に唐団扇、左手に紅白の牡丹を持っている。日覆い屋根が取り付けられている山は珍しく、桐、桜、菊の欄縁の下に金地彩色宝相華文様の乳隠し(ちかくし)が用いられているのも個性的。「釜掘り山」という名でも親しまれ、金運開運のご利益があるといわれる。

ご利益:開運、金運、母乳の出を守る
保昌山

保昌山ほうしょうやま

武勇に優れ、和歌も堪能な武将・平井保昌(やすまさ)と平安歌人・和泉式部の恋物語に基づく山。自分への想いの深さを確認するため、式部が紫宸殿の紅梅を欲しいと所望。保昌は夜に宮中に忍び入り、護衛に矢を射られながらも一枝を手折り、彼女の願いを叶えて結ばれたというストーリー。明治初年までは「花盗人山(はなぬすびとやま)」とも呼ばれていた。御神体は緋縅の鎧に太刀をつけ、たくさんの紅梅を捧げている保昌の姿。ロマンチックな逸話から、縁結びにご利益があるといわれ、梅の花が添えられた護符やちまきが授与される。

ご利益:縁結び
油天神山

油天神山あぶらてんじんやま

現在ある町名の由来にもなっており、公家であった風早家(かざはやけ)に古くから祀られていた天神様を勧請(かんじょう)して作られた山。所在地が「油小路綾小路下ル」ということから「油天神山」、勧請日が丑の日であったため「牛天神山」とも呼ばれている。正面には朱色の鳥居、金箔置きで美しい社殿の内には木彫彩色の天神像が安置される。こちらの像は風早家に伝来したのち、町内の祠に祀られていて、1630(寛永7)年に製作されたもの。何度も大火や兵火に見舞われながらも復興して現在に至る。

ご利益:学問成就、厄除け
四条傘鉾

四条傘鉾しじょうかさほこ

織物の垂(さが)りをつけた傘と棒振り囃子で練り歩く、応仁の乱以前に起源をもつ古い形態の「傘鉾」の一つ。綾傘鉾と同じ巡行スタイルだが、お囃子(はやし)に合わせて踊る赤熊(しゃぐま)をかぶった棒振りや、太鼓・鉦(かね)・ササラなどの囃子方(はやしかた)は、すべて子どもたちが担う。また傘の先端には赤幣と若松が飾られ、同じ傘鉾でも異なる趣向をもつ。1872(明治5)年から巡行が途絶えていたが、1985(昭和60)年に傘本体を復元。1988(昭和63)年には巡行に欠かせない踊りと囃子が再興された。室町時代に京都から広まった風流踊で、現在も滋賀の[滝樹神社]に伝わるケンケト踊を参考にしたのだとか。

ご利益:招福、厄除け
蟷螂山

蟷螂山とうろうやま

「蟷螂の斧を以て隆車の隧(わだち)を禦(ふせ)がんと欲す」という中国の故事に由来。カマキリが前脚をふりあげて車に挑むように、弱い者が大きな敵に立ち向かう行いを意味する。山の起源は南北朝時代で、足利軍に挑んだ四条隆資の戦いぶりがカマキリの斧のようだったことから。渡来人・陳外郎大年宗奇が、四条家の御所車にカマキリを乗せて巡行したのがはじまりといわれている。幕末以降は長く休山となっていたが、1981(昭和56)年に117年ぶりに再興。カマキリと御所車の車輪が動くなど、山鉾のなかで唯一からくりが施されている。通常粽の他に、御幣と蟷螂折り紙、榊が付く粽もユニーク。

ご利益:厄除け、疫病除け
伯牙山

伯牙山はくがやま

古代中国の周時代、琴の名手だった伯牙が、自らを大変よく理解してくれる親友の鍾子期(しょうしき)が亡くなった悲しみから、琴の弦を断ち、二度と弾くことがなかったという逸話を現代に伝える。「琴破山(ことわりやま)」ともいわれていたが、明治維新の頃に改名されたという。御神体の伯牙は、手に斧を持ち、苦渋の面持ちで琴を打ち壊そうと見おろしている迫力ある姿だ。「金勝亭賽偃子」との墨書銘があり、江戸中期以降の作と考えられる。山の由来には諸説あるが、いずれも伯牙と琴に関するエピソードに基づく。厄除け・災難除けのほか、技芸向上のご利益があるといわれる。

ご利益:厄除け、疫病除け
木賊山

木賊山とくさやま

世阿弥の作といわれる、父子の再会をうたった謡曲「木賊」が題材の山。“木賊(とくさ)”とは“砥草”とも書かれる通り、研磨などにも使われる多年生の植物のこと。御神体は、最愛の息子を人にさらわれた父親が、信濃国伏屋の里で片手に鎌を持ち、寂しく木賊を刈っている再会前の姿を表現。足台には、1692(元禄5)年6月吉日と墨書銘があり、桃山時代の奈良仏師・春日による彫刻だと伝わる。哀愁を帯びた表情は、華やかな装飾品とは対照的だ。生き別れになった我が子を想う老翁は、木賊に囲まれて悲しげに虚空を見つめる。授与される護符や粽には「迷子除け」や「再会」のご利益があるという。

ご利益:迷子除け、再会
霰天神山

霰天神山あられてんじんやま

室町時代、京都で大火があった際に霰が降り、猛火がたちまち鎮火したという。その時に降臨した小さな天神像をお祀りしたのがこちらの山の起源と伝わる。山の上には欄縁に沿って朱塗り極彩色の廻廊をめぐらし、中央には春日造の美しい神殿を安置。江戸時代に社殿の屋根を大きくしたり、透かし塀にしたりするなど改修されたそう。塀内に繁るたくさんの松や、鳥居内に立てられる一対の榊と2本の紅梅も特徴的だ。周囲の被害が甚大だったのちの大火でも焼失しなかったことから「火防(ひぶ)せ」「雷除け」のご利益があるといわれる。錦小路通室町西入ルにあるため「錦天神山」「火除天神山」の別名をもつ。

ご利益:火災除け、雷除け、厄除け
白楽天山

白楽天山はくらくてんやま

唐の詩人で、学問の神様ともいわれる白楽天が、老松上に住む道林禅師を訪ねて「仏法の大意とは?」と問う場面を表現する舁山。2体の御神体が祀られ、唐織白地狩衣に唐冠をかぶり笏(しゃく)を両手で持ち立っているのが白楽天。紫衣を着て藍色羅紗の帽子(もうす)をかぶり、数珠と払子を持って座しているのが道林禅師だ。問答の末、道林禅師の返答に白楽天はとても感服したという。その求道心にあやかって学問成就や合格祈願のご利益があると伝えられる。こちらの山も度重なる大火の被害をうけ、御神体の胴を失うなどの被害により中断しながらも現代に受け継がれてきた。

ご利益:学問成就、合格祈願、厄除け
芦刈山

芦刈山あしかりやま

平安中期の歌物語「大和物語」を原典とする、謡曲「芦刈」から構想を得たとされる。わけあって別れた夫婦が、やがて再会する夫婦和合がテーマ。芦を刈って売り、寂しく暮らしていた夫の様子を表す御神体は、三日月が昇る薄暮の芦原に立つ老翁の姿。能衣装に水衣をはおり、懐には扇子、手には鎌と芦を持っている。戦国時代の1537(天文6)年七条大仏師・兼運作の墨書銘がある御神体の本頭や旧衣装の小袖は山鉾最古級とされ、国の重要文化財にも指定されている。長い歴史のなか大火や戦乱から守られ、貴重な宝物が継承されてきた。夫婦円満のご利益が期待できる粽や護符を授与する。

ご利益:夫婦和合、縁結び
占出山

占出山うらでやま

「日本書紀」のなかで、神功皇后が外征前に肥前国の松浦で釣りをし、戦運を占ったという話がある。すぐに鮎が釣れて、戦勝の吉兆であると喜んだそう。山に祀られるのは金烏帽子に太刀をはき、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持って立つ神功皇后の御神体。臨月に出陣し、凱旋後に無事に皇子を産んだと伝えられ、古くから安産の神様として知られている。こちらの山の巡行順が早い年は、お産がスムーズに進むといわれているとか。巡行時は御神体に多くの岩田帯を巻き、のちに安産御腹帯として授与される。安産護符のほか、近年は勝運にまつわる授与品も。「鮎釣山」とも呼ばれている。

ご利益:安産
綾傘鉾

綾傘鉾あやかさほこ

現在残る山鉾以前の、古い形態を現代に伝える珍しい傘鉾のひとつ。傘先端に御神体の木彫漆箔鶏、松の木が飾られる二基があり、大傘を中心に棒振り囃子の行列として徒歩で巡行してきた。赤熊(しゃぐま)をかぶった人が棒を持ち、太鼓、笛、鉦(かね)の音に合わせて踊りながら進む。棒を振るうことで災いを祓う意味があると考えられているそう。江戸後期に一時的に御所車風の屋根に風流傘がのった曳き鉾になったという記録が残るが、のちの大火で大部分を焼失。明治になり5年間ほど原型の徒歩巡行を再開、その後100年ほど中断していたが、1979(昭和54)年に復興をとげた。

ご利益:安産、縁結び
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後祭あとまつり

後祭り
北観音山

北観音山きたかんのんやま

「上り観音山」ともいわれ、楊柳観音像と韋駄天立像を安置する曳山。観音懺法(かんのんせんぼう)にちなんで、山の後方に諸病を防ぐ柳の大枝を飾る。古文書によると1353(文和2)年に創建され、飾り屋根を付けたのは1833(天保4)年とのこと。応仁の乱の時代より、隣町の南観音山と1年おきに山を出していたが、1879(明治12)年以降は同時に巡行している。2022(令和5)年からは後祭の2番目、6番目を隔年交代で担う。屋根の上に立てる赤松の所有権をくじで決める「松取り式」を行うなど、現在も両山の縁は深い。北観音山の松の上には鳩、南観音山には尾長鶏(いずれも置物)がとまっているのにも注目。

ご利益:厄除け、疫病除け
南観音山

南観音山みなみかんのんやま

楊柳観音と善財童子を祀る。北観音山の南側にあり「下り観音山」ともいわれる。仏教経典・華厳経の中で、悟りを求めて修行の旅にでる善財童子が53人の師から順に仏道を学んでいくのだが、28番目に出会うのが柳を手に持つ楊柳観音。御神体の楊柳観音の像は趺座姿で、鎌倉時代の作と伝わるが、大火により頭と胸部以外を焼失した。補修部分は善財童子像と同じ江戸時代の木彫彩色。宵山の夜更けには、布で包まれた観音像を神輿に担ぎ、揺らしながら町内を回る神事「あばれ観音」が行われ、深夜に関わらず多くの人が見守る。曳山後方に飾られる柳には諸病を防ぐご利益があるそう。

ご利益:厄除け、疫病除け
橋弁慶山

橋弁慶山はしべんけいやま

源義経の数ある物語の中で、屈強な弁慶との出会いをうたう謡曲「橋弁慶」が題材。八方正面の舞台の上で、牛若丸(義経)と弁慶が五条大橋で戦う姿が再現されている。黒漆塗りの欄干の擬宝珠上に、足駄の前歯で軽々と立ち、右手に太刀を持つ牛若丸と、鎧姿で大長刀を斜に構える弁慶の緊張感あるワンシーンが見事。御神体には、1563(永禄6)年大仏師康運作の銘、牛若丸の足鉄串には、天文丁酉(1537)右近信国の銘があり。舁山唯一のくじ取らずで、2012(平成24)年以降は後祭巡行の先頭にたつ。山籠や真松のない形式は山の中でも古式と考えられている。ご利益は心体健康。

ご利益:心体健康、厄除け
役行者山

役行者山えんのぎょうじゃやま

役行者(えんのぎょうじゃ)とは、修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)のこと。鬼使いの術が使えるなどの伝説が残る人物で、山伏たちから崇められていた。御神体は三体で、正面には経典と錫杖(しゃくじょう)を持ち鎮座する役行者。両側には赤熊(しゃぐま)をかぶり、斧を構える一言主神(ひとことぬしのかみ)と、輪宝を手にする葛城女神(かつらぎのかみ)の姿が。役行者が大峰山と葛城山の間に橋を架けるため鬼を使ったという伝承を想起する御三方が祀られている。後祭宵山には山伏による護摩焚きが行われ、厄除や心願成就のご利益を求め訪れる人も多い。

ご利益:厄除け、心願成就、安産、交通安全
鯉山

鯉山こいやま

朱塗りの鳥居の内には、大きな鯉が躍動しながら滝を登る勇姿、小祠には素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀っている。龍門の激流を登りきれた鯉は龍になるという、鯉のぼりの由来や登竜門の語源としても有名な中国の故事から着想を得ている。シンボルである木彫の鯉と波は江戸時代の名工・左甚五郎の作。近年の材質調査から1650年頃のヒノキであることが判明し江戸前期に彫られた事実が裏付けされたという。また欄縁、角金具などは統一された波濤文様。重要文化財にも指定されている16世紀のベルギー製のタペストリーなど貴重な懸装品にも注目したい。ご利益は出世開運や難関突破。

ご利益:出世開運、難関突破
八幡山

八幡山はちまんやま

町会所の庭に祀られ、大切に護られてきた八幡宮を勧請した山。創建は応仁の乱よりも以前との記録が残る。こちらの八幡宮は[若宮八幡宮]が東山五条に遷された後に分祠されたと伝えられ、御神体は神功皇后の子である応神天皇。厨子の中には、運慶作の応神天皇騎馬像が安置されている。美麗な小祠は総金箔押しで江戸時代後期に作られたもの。巡行日にだけ山台にその煌びやかな姿を表す。朱塗り鳥居の上には左甚五郎作と伝えられる木彫胡粉彩色の鳩の姿が。雌雄一対の鳩は夫婦和合のご利益があるとされている。授与される愛らしい鳩笛は子どもの夜泣き封じに効くそう。

ご利益:夫婦和合、子どもの健康、夜泣き封じ
鈴鹿山

鈴鹿山すずかやま

畿内と東国を繋いだ伊勢の鈴鹿峠で、道行く人々を苦しめた悪鬼を退治したという鈴鹿権現(すずかごんげん)を祀っている。御神体は金の烏帽子をかぶり、能面をつけた女人の姿。大長刀を持って立つ様子はとても凛々しく、山洞には悪鬼の首を象徴した赤熊が掛けられている。能装束の下には安産祈願の腹帯も着用しているという。鈴鹿山や宝珠が描かれた絵馬を真松にたくさん付けているのもこちらの山ならではの光景。巡行後には盗難除けのお守りとして授与されるのだそう。安産や雷除けなどのご利益もあると伝えられている、山鉾町のなかで最も北側に位置する舁山。

ご利益:盗難除け、安産、雷除け
黒主山

黒主山くろぬしやま

平安時代の「古今和歌集」に記された六歌仙の一人・大伴黒主が、桜の花を仰ぎ眺める様子を表す。創建の時期は定かではないが、1500(明応9)年には存在していた文献が残っているという。御神体には「寛政元年 五月 辻又七郎狛元澄作」の銘があり、白髪の髷(まげ)に顎髭をたくわえた姿は、謡曲「志賀」に基づくとされる。真松の山籠に加えて添山(そえやま)が配置されるのは、古くからある山の名残りでもあり、桜の木が立てられる。華やかに山を彩る桜の造花は、翌年の粽に添えられるというのも趣深い。黒主山の桜を玄関に挿すと家の中に悪事や泥棒が入ってこないと伝えられている。

ご利益:厄除け、盗難除け
浄妙山

浄妙山じょうみょうやま

「平家物語」にて伝えられる、筒井浄妙と一来法師が順番を競ったという宇治川合戦の一節に由来。僧兵の浄妙が敵陣に一番乗りしようとすると、弟子である一来法師が「悪しゅう候、御免あれ!」と、頭上を飛び越えて先陣をとったという一瞬が切り取られている。御神体同士が木片の楔で繋がれ、アクロバティックな姿は見もの。一来法師が声を掛けているため、口が開いているのだとか。黒漆塗の橋桁には矢が刺さり、戦の激しさも表現されている。浄妙が着用している鎧は室町時代に作られたもので重要文化財。かつては「悪しゅう候山」と呼ばれ、勝運のお守りなどが授与されている。

ご利益:勝運、厄除け
大船鉾

大船鉾おおふねほこ

「祇園社記」によると、1441(嘉吉元)年に建立されたと記される。江戸時代の大火により被災と復興を繰り返してきたが、幕末の蛤御門の変にて、屋形や車輪などを失い休み鉾に。しかし御神体や懸装品などを飾る“居祭り”は、130年に渡って続けられてきたという。一時途絶えた時期はあったが、1997(平成9)年に宵山囃子が復活し、そこから一つひとつ再興。ついに2014(平成26)年に大船鉾として、150年ぶりに巡行に参加した。以降くじ取らずで後祭の殿(しんがり)をつとめる。前祭の船鉾が神功皇后の出陣を表しているのに対し、こちらは戦に勝ち凱旋する船。御神体の神功皇后も鎧を脱いだ狩衣姿だ。

ご利益:安産、厄除け
鷹山

鷹山たかやま

応仁の乱以前より、「鷹つかい山」「行平山」などの記録が残る由緒ある山。歌人の在原行平が、光孝天皇の御幸で鷹狩りをする場面が題材となっていて、御神体には鷹匠、犬飼、樽負の三体を祀る。江戸時代に曳山となったが、天明の大火で罹災したのち、華麗な屋根を持つ姿で復活。しかし1826(文政9)年の巡行で大風雨により大破し、さらに蛤御門の変で多くを焼失したため休み山に。宵山には町内の町家などに御神体などを飾る“居祭り”として長い歴史を繋いできた。2014(平成26)年に囃子方を結成、多くの人たちの熱い想いが実って、2022(令和4)年ついに196年ぶりの巡行復帰を果たした。

ご利益:厄除け
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巡行ルート・MAP

前祭では7月17日の午前9時から長刀鉾を先頭に四条通→河原町通→御池通をゆっくりと進み、新町御池を目指します。後祭では24日の午前9時30分より、烏丸御池の交差点から橋弁慶山を先頭に、前祭とは逆のルートで巡行します。交差点を右左折する際に行う辻回しは山鉾巡行の最大の見せ場。10トンを超える山鉾のダイナミックな辻回しにも注目して。

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